文語体

 「なじかは 知らねど 心わびて・・」といった文語調の言葉使いに、いま使っている「word」はほとんど反応せず誤訳を繰り返す。これが「一太郎」だと幾らかまし(近頃使ってないので最近のバージョンは不明)なのだがやはり文語体は弱い。おそらく文語体を使う世代は既に絶滅してしまったか、もしくはそういった世代は手書きによる文章作成のみに頼っているのであろうか、残念なことである。
 私の幼少の頃には、学校で習う歌は殆どこの文語体の歌詞によるものであった。有名な「赤とんぼ」の“おわれてみたのはいつの日か”を“追われて”と思い続けて幾歳月であったろう。「早春賦」の意味などはまったく分からないで歌っていた。“あまつ御使いの 言葉さながら・・”などは今でさえ難しい。しかしその御蔭で言葉の響きの持つ心地よさを身につけることが出来たと思っている。文語体は分かりやすさより格調に重きを置いたものなので、また文字にして表現するので、おのずと同音異語なども多く耳だけでは意味をとりづらい場合がある。それに対し口語体は日常の会話に近い文体であるから、耳で聞いて意味を取り違えることなどは少ないがいささか趣に欠ける。
 てなことを書きましたが、文章表現は時代時代で変化もするし進化もするので、何でもかんでも昔は良かったなどと言うつもりはありません。しかし、この「word」の誤変換とボキャブリーの偏りは何とかならないのでしょう。やはり一太郎さんにお願いするしかないのかねえ、まったくもお(この辺りこの文章の趣旨とはかなり外れた内容となっています)なのです。因みに、冒頭に挙げた「なじかは 知らねど・・」は「ローレライ」の歌詞の一部ですが、近藤 朔風という人がハイネの詩を訳したものです。この人は「野ばら」や「菩提樹」の歌詞も訳しています。もちろん文語体ですから現代のご時世とはやや距離を感じると思う方も多いでしょう。でも歌曲としてはぴったしなのです。

このところ再使用が多い私の写真だけど、BSプレミアムの真似?