独り言

 日記は自分だけの領域なので何を書いても大丈夫、と思っていても後で他人の目に触れることがある。だから決して油断は出来ない。他人に見せたくないもの、見られては困る胸の内などは結局のところ外へは出さず、死ぬまで自分の中に封印するしかない。ところがヒトは見せたがり屋だからそれとなく仄めかすなどということを仕出かす。また他人には知られたくないけど、形にしておきたいなどと思う気持ちもあるから、文章に残して死ぬ間際に処分するなんてことを企てたりする。こういったものが処分されずに本人の死後に暴露されたりすることもままある。
 小説家はもともと露出趣味の持ち主だから、矢鱈に告白めいたものを発表する。あれは半分は嘘、半分は誇張なのだろうが時々本音を混ぜる。そうすることで露出趣味を満足させている、のではないかと私は思っている。私小説というジャンルがあるが、家族が迷惑する書き物と聞いたことがある。書く本人のことのみならず、家族や友人果ては知人まで巻き込んで、有ること無いことリアルタイム風に書き込んだりする。読者は現実と架空の区別がつかないから、半分は事実だろうなどと思ったりする。当然の帰結として作者周辺は白や黄色の眼で、時には含み笑いされたりでとんだこととなる。近くに小説家が居る時は注意した方が良い。
 私は小説家でも物書きでもないから、そして露出趣味もないから他人に知られてまずいことは自分の中において外には出さない。開高 健が最後の小説の中で、主人公にぽろっと言わせたことのなかに、この世には男と女しかいないのであれば、とどのつまりこの関係の中で物事は終始するしかない、といった内容の件があったように覚えている。これはかなり本源的なことであり、私だけでなく多くの人にも共通した願望と言える。しかし相手のあることなので、本人の思惑通りに進むことなどまず無いと考えるのがふつうである。だからたとえ願望はあっても具体にすることは棚上げにして夢想にふけるか、諦めて他の分野でお茶を濁すかする。諦めきれない時や目測を誤った時などは修羅場に立ち会う羽目になったりする。それらも含めてだから人生は面白い、と言える人はなかなか見つけられない。大概は右往左往しながら嵐が治まるのをじっと待つ。あまり誉めたものではなく、傍で観ていても気の毒になることが多い。見果てぬ夢という願望である。しかしこの願望も物理的な理由で実現不可能になることがある。加齢という壁だが個人差が甚だしいので一概に括ることは出来ない。私の場合は既に壁にたどりつき、叶わぬ夢となったのである、世話は無い。

見果てぬ夢・・・。