詩について考えてみた

昨日に続いての考察 

 

 「城ヶ島の雨」という歌がある。“雨はふるふる 城ヶ島の磯に・・・”という唄い出しで始まる歌曲というジャンルに入っている歌だ。作詞は北原白秋、バリバリの詩人だからもう言うことがないほどのモロ詩なのだ。城ヶ島の磯の降る雨は、というと“利休鼠の雨が降る”とまあ、手のつけようのないくらい良く出来た詩だ。では吉田拓郎井上陽水の詩はどうだろう。“浴衣の君はススキのかんざし・・・”、あるいは“さびしさのつづれに 手紙をしたためています・・・”なども決して悪くはないが、流行った当時にはそれらを詩として認識できなかった。 でも今になって読み返してみると詩としても十分成立しているし、いくぶん突っ込みが足りないようにも見えるが、心情を率直に自分の言葉で表現していて、大したもんだなあ、と感心してしまう。“あなた変わりはないですか 日ごと寒さが募ります・・・”、都はるみさんがこれを歌うと、私にもセーターを編んでくれるような人がいないものかと、思わず探してしまう。探したところで居るはずもない、徒労に終わる秋の夕暮れ・・・という情けない結論しか出てこない。“ごらん あれが竜飛岬 北のはずれと・・・”などと石川さゆりさんが歌えば、詩というよりは散文を聞いているような気がしないでもない。お二人ともやたらと歌唱力があるから、歌う力に引っ張られてしまい歌詞などは後からおいでよと、ついおろそかに聞いてしまう。やはり艶歌系の詩は少し、いわゆる“詩”というジャンルと、決して貶めているという意味ではないのだけれど、違うのかなあと思えてしまう。まあ拓郎の詩を艶歌の森進一さんが、こぶしバリバリで歌った“北の町ではもう 悲しみを暖炉で 燃やし始めているらしい・・・”などは、艶歌といえども詩を歌うことが出来ることの証明であったのだが。とにかくフォークソング辺りまでの歌詞については“詩”としての体面というか、構成要素が理解できるのだが、艶歌、演歌となると詩というよりは“歌詞”として独自のジャンルを成立させているのではないかと思う。一般に歌謡曲と言われるものも同様に思えるのだ。                 つづく