三十日目

 

 いやあ驚きましたなあ、“自己責任論”。IOCもいよいよとち狂ったとしか思えない、いくらスポーツ馬鹿の選手たちもこれにはねえ、でしょ。私たちの政権お偉方もこの自己責任論が好きですが、IOCほど踏み込んでいないところが“なあなあ”でずっと過ごしてきたヌルさと言うか、やはり世界の興行師の胴元は鋭いです。選手なんか見世物、消耗品、死のうと何しようと自己責任なんですよ、解りやすいですよねこの論理は。イベントで飯を食うにはこのくらいの腹を持っていないと、渡世の荒波はくぐれません、いやあご立派、見上げたものです。クーベルタンは呆れてそっぽを向くかもしれませんが、そこはあなた、ぼったくりのイベント屋ですから、屁の河童、馬耳東風、聞く耳などはありません。

 今日は昨日の引き続きで罵詈雑言を考察つもりでしたが、この“自己責任論”にはまいりました。これでは何を言っても“蛙の面にションベン”でした。もうオリンピックなどという名称は止めにして、“世界スポーツ競技団デストピア”というイベント名で各地を転戦するとよいかと思われます。もちろん自前で資金繰りをして、会場も自分で手配し、切符も売り歩くのです。興行師ですからそのくらいは当たり前、地回りなんかと交友を深めて、その辺りは得意だろうからきっと上手くいくと思います。

 さて、このブログの回数もどうにか30回を迎えました。明日からどうするのかまだ決まりません。この辺りはオリンピックの開催と似ているような別なような気もしますが、こちらはどこにも迷惑も影響もないので気楽なものです。明日になって考えればよいのですから。自分に向かって喋っているつもりで文章を作ってきましたが、まあまあ時間つぶしにはなりました。

 

二十九日目

 今日と明日は罵詈雑言について考察したい。何故かというと、「非常事態宣言下でもオリンピックは出来る」とか「アルマゲドンでもなければ開催する」などと言っているIOCの幹部たちへの贈り物としてどのような罵詈雑言が適当なのか、その辺りを考えてみたい。

 間抜け、たわけ、うつけ、腰抜け、ボケ、ハゲ(これは少し違うか)、クソッタレ、ションベンたれ、鼻ったれ、腐れ○○○(男女ともにあり)、バカ、薄馬鹿、薄ノロノロマ、愚図、アンポンタン、スカタン唐変木、すっとこどっこい、とここまできて後が続かない。思いつくだけではこんなものかと語彙不足を呪う。日本語は罵詈雑言の類が外国と比較すると少ないらしい。筒井康隆の「罵詈雑言集」という本があったかと思う。あれを見ればよいのだが、あいにく捨ててしまったから類語辞典か何かで調べてみることにした。しかし類語辞典なんぞ見ても悪口の特集が載っている訳でもなく、因みに「変人」という項目を引くと、見栄っ張り、出しゃばり、しみったれ、嘘つき、ほら吹きなどが出てくるが、これと言った悪罵というほどのものはない。IOC の馬鹿ったれどもに投げつける言葉としては行儀良すぎるのだ。善良、無欲などの反語として、腹黒い、悪賢い、破廉恥、強欲、阿漕、業突く張りなど、“ぼったくり男爵”以下の連中にはふさわしい言葉が並んではいるけど、悪口としては今一つ迫力がない。一晩寝て考えることとしよう。

二十八日目

 猫が同居するようになってからすでに20年以上になる。最初の猫は9年で死んでしまった。もともと体が小さく食も細い体質だった。その猫が亡くなってから3年ほど時間が空いて今の猫が来た。今年で14歳になるからもう老境にさしかかっている。私はもともと犬派だったから猫と暮らすことなど考えもしなかった。今でも犬は好きだが猫には一歩届かない。

 猫は魔物という人も居るが、確かに一度家の中に入れるとなぜか離せなくなる。“魅入られる”というか、“薬中”になったような(なったことはないが)状態に落ちてしまう。魔物と言われる所以であろうか。前の猫が亡くなってからの3年は俗にいうペットシンドローム状態で、回復するまで次に行けなかったのだった。本当は縁を切りたかった。しかしズルズルとまた深みにハマってしまった。”クスリ“と同じ(やったことないけど)である。
 猫なで声というのがあるが、猫と話す(猫語は話せないが)ときにはなぜか声が裏返ってしまうようで、いわゆる猫なで声となる。もともと猫がヒトに媚びるときに出す声のことを猫なで声と言ったようだが、ヒトが猫に媚びるときの方が圧倒的にそのような声になる。幼児語になるときもあり、猫のパパ、ママになってよそ様の白い眼を浴びたりもする。

 夜に何度も起こされ、早朝から起こされ、出かけたときは用事を済ませるなりすぐ帰る、そんな生活を余儀なくされる。作家の小池真理子さんは、同居していた猫のために外泊を止めたとその昔書いていた。まさにそのような生活になってしまう。猫に支配されてしまうとでもいう状況にハマってしまうのだ。

 昨今では猫動画という代物がネット上に溢れかえり、世界中がそれらを見て喜怒哀楽したり、稼いだりしている。うちの猫は稼いだりしてくれないが、いつまでも元気でいてくれればそれでよいと思っている。

二十七日目

 4月の中頃から再開して約一か月半、やっと二十七回目となりました。今日を含めてあと4回ほどまとめればちょうど一か月分ほどになります。前にも言いましたがその先は続けるのか止めるのかを決めていません。ある意味では今回再開した目的は達成されたと思っているのです。オリンピックの中止を確認するまでは続けてもいいかとも考えますが、東京都は代々木の森の剪定をしてまでPV会場を設置するらしいし、ぼったくり男爵もやる気らしいしから、満身創痍、感染地獄の“世紀のオリンピック”が強行されるのかと思っていたら、朝日新聞デジタル版で“五輪中止を求める”社説が出ました。ちょっと驚きで、オリンピックの大スポンサーとも言うべき大新聞が開催中止を言いだしたのですから、これは潮目が変わるかと期待しています。

 私の住んでいる三多摩自治体では武蔵野市の市長が開催に懸念を表明していますし、三多摩各市の市議会議員が連名で知事あてに開催中止の要請書も提出しました。このような動きはかつて無かったことであり、コロナ禍でのオリンピック開催強行が、五輪憲章に背くと同時に市民の生活と健康を阻害するものとなってしまう、多くの人たちがそのように思い始めている証ではないでしょうか。

 政府の丸川オリンピック担当大臣は、開催中止にかかる損失補填は開催契約の中で東京都が負担とするとなっていると、聞かれてもないことを記者会見で言ったそうです。その真意は測りかねますが、責任はすべて東京都にあるとけん制したのでしょうか。ひょっとして責任のなすり合いがすでに始まっているのでしょうかねえ。だとしたら大変興味深いのですが。

二十六日目

 車を持っているとこの時期は税金や保険やらで出費がかさむ。とくにうちの車は年式が古いので自動車税の割増金が加算されて、腹立たしいことこの上ない。排ガス規制と買い替え促進を狙った制度で、新車登録から13年後になると5000円ほどの追加金が上乗せされる。もう大分前に作られた制度だが未だに生きている。2030年あたりになるとガソリン車の販売を止める話もあるから、ますます古い車への風当たりは強くなるかもしれない。

 私は古着屋を覘くのが好きで、今着ている服の多くは古着として買ったものだ。古道具屋も好きだがこの頃ではリサイクルショップという便利な店舗があって、古着も古道具も同時に見られるからとても重宝している。良いものを長く使う、大事に使うという習慣は古くからあって、大量消費、大量生産などというシステムよりずっと歴史は長い。骨董市や骨董屋も面白いが、あれは近頃ではやたら高い値段が付けられていて興ざめする。車の話に戻るが、最近の話題でビンテージカーと呼ばれる種類の車がかなりの高額で取引されているらしい。新車当時の価格の数倍、物によっては十倍もの価格は付くという。うちの車もそんな価格が付けばすぐに売るのだが、そういった話はない。

 この国が車社会になって久しいが、そのおかげで消えたもの、すたれたものが数多くある。国鉄、いまのJRなどはその最たるものだろう。日本は世界に冠たる鉄道王国であった。線路が隅々にまで張り巡らされて、交通インフラの中心となっていた。車中心の社会を目指す政策的取り組みの中で、地方の鉄道は次々と廃線となっていった。そして“民営化”という名の国有財産のたたき売りが始まった。車社会が地球温暖化に多くの貢献をしていることを考えるとき、あの“民営化”は何だったのか、SDGsなんぞを考えるよりよほど大事なような気がする。

“風が吹けば 桶屋が儲かる”という諺の意味を深く考えた方が良い。

二十五日目

 鳴り物入りの大規模ワクチン接種が東京、大阪で始まりました。初日の昨日はさしたる混乱もなく順調な滑り出しというところのようです。30億円の力でしょうか、まずは目出度いと関係者の方々は胸をなでおろしていることでしょう。しかしこの大規模会場で接種できる人数は45万人ということで、対象地域の予定対象者900万人のたった5パーセントにしかならないと言います。一人当たり約6700円弱を投入し政府の”やってる感”を演出するために使われる税金としては如何なものかと、ケチなことを考えてしまいました。ワクチンだって大枚をはたいている訳だから、どこかでツケを払わせられることを思うとき、にこやかに出てくる接種後の老人の顔を率直には喜べない、複雑な感情が沸き起こるのでした。貧乏人なもので・・・。

 東京の感染者数がこのところ急激に減っていますが、PCR検査をどのような基準で実施しているのか、相変わらず検査件数が少なく意図的な要素を感じてしまいます。自宅での療養者もかなりの数いるのに、ベッドの空きを誇示しているのも気になります。巷でささやかれているように、小池都知事は国政への復帰を念頭に調整中なのでしょうか。都議会議員選挙の結果次第ではどのような事態でも起こりうることでしょう。

 今朝の東京新聞によれば、オリンピックの中止を求める声が60パーセントを超えたという世論調査の結果を報じていました。IOCバッハ会長の“犠牲”発言と相まって、オリンピックそのものの意義を疑問視する意見も多く聞かれるようになりました。このまま政府や小池都知事の思惑で開催が強行されるようでは困るのですが、コロナ禍への対応を犠牲にしてまでオリンピック開催に拘ることだけはやめて欲しいと、まだワクチン接種の予約券すら来ない私としては切に思うのです。

二十四日目

 備忘録という書き物がありますが、メモや記録は以外と重宝するもので、何でもかんでも覚えていられないから走り書きでも残しておくとそれを見て記憶がよみがえるという、私のような記憶力の弱い者には大変有効なアイテムと思っています。知人でメモは一切取らない人がいました。聞けば、メモを取るとそれに頼ろうとして記憶力が低下する、だからそれを防ぐためにもメモは取らないと言うことでした。そういう人はもともと記憶力が良いのでしょう。新聞記者だった人は、人の名前は一度で覚えると豪語していました。私などは一度どころか何度聞いても思い出せないことも多く、名札がないと冷や汗もののことが日常茶飯事です。顔は一度見たら忘れることがほとんど無いのです。でも名前は駄目ですねえ。

 コンピューターはあることを一度記憶させておけば記録を消さない限りいつまでも残ります。大西巨人の本に「神聖喜劇」というのがあって、一度記憶したことは決して忘れない人が主人公で、私などには羨ましい限り能力と思えるのですが、その能力に悩まされるのです。確かに何でもかんでも覚えていることは便利なようでかなりの負担、苦痛を伴うことでもあるようなのです。例によって本のあらすじや結末は忘れましたが、完ぺきな記憶力があれば幸せとは限らないと言うことだけが記憶に残っています。もしコンピューターに意識があったらかなりキツイことになっているだろうと、ちょっとSFみたいなことを思ったりします。人工知能「HAL」だってもう少し寛容になれたかも知れません。アーサー・シー・クラークが「神聖喜劇」を読んでいたらもう少し違った「HAL」を創っていたかもと思います。
 とは言うものの、私としてはもう少し記憶力が欲しいと願わずには居られません。なにしろ朝令暮改ならぬ”朝覚暮忘”ですから。うちの同居にゃんこの方が物覚えが良いのです、いえホント。