こうなるのか

 22日の松本文科相の記者会見はあちこちで波紋を呼んでいるようですが、東京新聞24付けの”本音のコラム“で元文科省事務次官の前川喜平さんが、「松本文科相こそ教育基本法16条1項違反」と言っていることに大賛成です。あからさまな個別攻撃とも言える同志社高校への措置は、同様な事故となっている北越高校のバス事故との取り扱いの違いを際立たせています。明らかに辺野古基地に対する反対運動への当てつけであり、政府方針に逆らうことへの見せしめとしか思えません。高市政権による国旗損壊罪や緊急事態法、スパイ防止法、国家情報局の設立…などなど一連の”取り締まり強化“法の目論見は、具体的にはこのような形で行われるというテストパターンのように見受けられます。

 おりしも自民党国会議員の8割が参加する「国力研究会」なる議員連盟が発足して、高市政権を支える活動を行うらしいし、NHKの世論調査では現政権支持率は61%と、下がったとはいえ高い支持率をキープしているし、なんとも怖い世の中になったと背筋が寒くなる思いです。

国旗損壊罪

 自民党のPTが国旗損壊罪法案を国会に上程すべくその骨子をまとめ了承したらしい。今後条文化を進め議員立法で今国会の成立を目指すと言う。

 このPTの議論ではお子様ランチの上に立てられた日の丸をどうすればいいのかという高いレベルの議論がされたようだ。ついでに日の丸弁当の取り扱いも議論されるべきではなったかと惜しまれる。また日の丸のデザインを使い、褌を作った場合や同様なパンツはどう扱うのか、さらにトイレットペーパーなどに日の丸を印刷した場合、使用前と使用後では損壊罪の適用範囲は異なるのかどうかなどと言った問題にも議論を進める必要があったのではないかと推察する。

 しかし考えてみると、そもそも国旗損壊などと言う罪が存在するのだろうかという疑問がある。

 旗というものは戦や争いの時に敵味方の判別や目印のために作られた、言ってみれば小道具でありそれ以上でも以下でもなかった。それがいわゆる国家主義というイデオロギーによって国を象徴するアイテムとなり、権力を示す紋章としての役割を与えられて現在に至っている。国歌なども同様な立ち位置ではなかろうか。だから国家権力の当事者たちは、国民に対して国旗や国歌への忠誠や尊敬を要求もしくは強制することに血道を上げてきた。近代における戦争ではこの国旗、国歌の果たした枠割は重大で、旗のために命を落としたりすることも珍しくなかった。

 ところが現在のわが国は戦争状態ではないし、憲法では戦争放棄しているからそんな状況を想定した国旗の議論は必要ないと思われる。まして現在のわが国は民主主義であり、国家主義とは決別している訳だから国旗や国歌への忠誠云々はそぐわないのではなかろうか。となれば、お子様ランチの日の丸をどうするかという議論以前に、国旗損壊罪という罪状そのもの存在が危ぶまれると言える。したがって自民党PTが行った高邁な議論も水泡に帰す運命にあるのではないか。

 まさか自民党もこんなバカなことを本気で考えている訳でもあるまい。お子様ランチは旗がないとお子様らしくないし、そんなことを大の大人が本気で議論するとは思えない。ねえ。

憲法第34条

 憲法第三章は「国民の権利及び義務」で第10条から第40条まであるのですが、中でも表題の第34条に書かれている内容が実態とどうもかけ離れているような気がしてなりません。もちろん34条だけでなく他の条文でも同様な状態になっているところもあるでしょう。けれどこの第34条「抑留、拘禁の要件、不法拘禁に対する保障」の部分をそのまま読むとすぐ思い浮かぶのは、洋画の取り調べシーンなのです。容疑者が逮捕されて取調室連れて行かれると必ず弁護士の同席を要請します。で、それから弁護士が来たところで取り調べが始まるのです。私は幸い逮捕された経験を持っていませんからこれは聞いた話ですが、この国の警察は容疑者が弁護士の立ち合いを要求しようがしまいがお構いなしに取り調べを開始して大変心細い思いをするとのことです。そこでどうするかと言うと弁護士がくるまで完全黙示するということになるのですが、これがかなり難しく、警察は脅したりすかしたりでもう大変消耗すると言います。おまけに弁護士の来るまでにえらく時間がかかる場合が多く、一昼夜以上も絞られこともまま有ると聞きました。密室で一方的に問い詰められるのは一種の拷問のようなものだと経験者が語っていました。これは何でこんなことが起きるのかと言えば、明らかに法律の不備であり憲法で言うところの抑留、拘禁の要件をきっちり法制化してないからなのでしょう。ですから警察内だか拘置所だかにひどい時には数か月にわたって拘留、なんてことも起きるのです。こんな事態は本来であれば憲法違反なのですが、決して珍しいことではなく日常茶飯事の状態で第二の監獄などと揶揄されています。

 言うまでもなく憲法はあくまで最高法規としての大前提を謳っているのであり、細目は各々の法律の制定によって決められます。それらの細目をどのように憲法の精神に沿った内容にするのか、それが立法府の仕事です。憲法を生かすも殺すも立法府次第、国会議員次第なのですね。そしてとどのつまり、それらを選挙で選ぶ私たち有権者の責任でもあるとなるようです。 基本的人権は「犯すことのできない永久の権利」とされていますが、冤罪で逮捕され有罪判決を受け刑務所に入れられるという最悪の人権侵害が後を絶たない原因の一つに、この憲法第34条の運用が守られていないことがあると思います。スパイ防止法やら日本版CIAの創設、国旗侮辱罪など、取り締まりと監視体制の強化ばかりが目に付く昨今ですが、憲法第三章の第10条から第40条までをもう一度熟読して次の選挙に臨むことが肝要のようです。

憲法第四章  国会

 憲法第41条から第64条までが国会に関する条文です。言うまでもなく国会は国権の最高機関なので、そこで議論する人たち、つまり国会議員は最高機関で議論するに相応しい見識と教養をお持ちの方々と思われます。ですから国庫から相当額の歳費を受け取ることも第49条で定められています。でここからが問題なのですが、歳費、つまり給料あるいは賃金とは異なる種類の報酬で、その額は法律によって定めるとなっています。そしてその法律を定めるのは外でもない国会議員ですから、まあ言ってみればお手盛りな訳で、自分に不利となるような内容の法律は作られないと考えるのが世の常です。しかし、そこは高い知性と見識をお持ちの方々なので国民が納得できるものを、一般常識からみても妥当な線で歳費、報酬を決められるはずと考えて・・・、とはならなかったですよね。案の定、社会的な常識からかなり外れた歳費が支給されることとなっています。昨年の歳費は、月額129万4000円、年間支給額となるとボーナス(これって必要なんですか)やら何やらで4170万円となり、さらに公設秘書費用やらを含めると議員一人当たり7500万円はかかっていると言われます。その他議員宿舎などの維持費や様々な事務経費も含めれば軽く一億円は超えるそうで、社会一般の常識からかなり乖離した待遇を受けていると思わざるを得ない、かなり“美味しい”職種と言えるでしょう。だからある議員のように”政治は儲かる“と豪語する方もいらっしゃるのです。因みに国民の平均給与額は年収470万前後で、非正規雇用の、つまり正社員以外はさらに低く200万そこそこなのです。国会議員の歳費、報酬がいかに社会常識から離れているのかが分かります。おかしいですよね。

 国会の主な仕事はまず立法、それに国の予算審議や国政調査などで、ある意味ではエッセンシャルワーカーとも言えますが、肉体労働をすることはまずないので体力的には老人でも務まります。しかし議場で居眠りをする議員も多数見かけられますから、裏では肉体労働でもしているのかも知れません。それはともかく、見る限り知る限りではさほどの過酷な仕事をしているとは思えませんから、なぜ歳費があのような金額となるのか合点がいきません。国会議員の定数を削減して“身を切る改革”を断行・・などと言う以前に、歳費の再検討と大幅減額、そしていろいろ有ると言われる特権的な待遇に大鉈を振るうことをすべきと思います。選挙制度とか多選問題、封建領主のような地盤継承と2世3世問題など、もう知性も教養も置き忘れたと言うかもともと無いかのような人ばかりが目立つ昨今の議員たちに、それら山積する問題に取り組めと言っても所詮は無理かもしれません。しかしそうであるなら早いとこ首のすげ替えするべきで、憲法第15条で言う有権者としての権利行使を・・・、まあそれが上手くいかないところに問題の根本があると言う、実にお粗末な結論になりそうな今日この頃なのです。しかし、支持率が3割強ぐらいの政党が国会議席の3分の2を確保してしまう今の選挙制度は、第15条で言う権利行使の妨害とも言えるのではないでしょうかねえ。どうにかしろよと思いますが、これらを決めるのも国会議員だから始末が悪い、実に議員に都合の良い国となっているのです。非常時の任期延長より議員任期は2期8年とするぐらいの法律を制定することを優先すべきです。緊急事態に対応するために憲法の改定を画策するのなら、まず自分たちの置かれている待遇の改定が緊急要件であることを国会議員各位は自覚すべきで、憲法審査会でうな重を食いながら与太話などしている場合ではないと議員各位に申し上げたいのです。

憲法第一条

 私は改憲には反対の立場ですが、国民主権を掲げる現行憲法の趣旨からすると、真っ先に天皇を持ってくる構成は違和感を覚えています。天皇という捉えどころのない存在を第一章に位置付けて第一条から第八条までを使い定義しています。国民主権を謳う憲法であるなら先ずは国民が第一章に位置付けられるべきではないかと、まあこれはあちこちでも指摘されていることで特段目新しいことではないのですが、考えてはいます。改憲を声高に言う人たちがよく口にする”占領軍に押し付けられた・・・“と言う件は、この辺りをスルーして第二章、第三章の戦争放棄、国民の権利義務にその矛先が向けられるようです。けれども一説によると、この第一章の位置づけこそ占領軍の思惑が出ているところなどと言う話を聞いたことがあります。要するに占領政策の円滑化を進める”方便“であったと言う訳です。事の真意はよく分かりませんが、天皇制をなんとしても守りたい”旧勢力“の思惑を考慮したGHQの判断が根底にあったことは間違いないのでしょう。

 で、まあその第一条で言われる天皇の位置なんですが、「象徴」であり「国民の総意に基づく」地位なんですね。第三章の国民の権利義務では第十条から第四十条までかなり細かく規定されているのと比べるとあっけないほどです。つまり、天皇には権利も義務も無ければ課されてもいないと思えるのです。じゃあ天皇は国民じゃないの・・・と考えられても不思議ではない、とまでは言わないとしてもそれに近いものを覚えてしまいます。国事行為やらなにやら“ねばならない”ことは列挙されているのですが、天皇及びその家族の権利や義務はその記載がなく、皇室典範にでもあるのかと思いきや、そこにもないのです。いまこの皇室典範の見直しが国会の審議にかけられようとしていますが、ご本人たちの意向や意見を聞かずに自分たちの身分にかかわる制度を、勝手に他人が決める事態をどのように考えていられるのか、“総意に基づく象徴”も辛いものがあるなあと、余計なことなどを考えたりします。天皇及びその家族の方々が天皇制という制度そのものを含めて、今後どのようにすればよいのか、あるいはどうされたいのか、一度聞いてみたい気もします。その上で日本国憲法での天皇に関する位置づけを再検討するなんてのは、改憲の議論としては意義深いなあと思ったりするのです。なんか緊急時に衆議院議員の任期をどうのこうのなんて、どうでも良いことを尤もらしく改憲の俎に載せて、ついでに9条や第三章もいじっちゃうなんて姑息じゃないですか、高市政府は。ま、あの人たちは深い考えなんかできないのでしょうから、その場の勢いというか思い付きだけでの判断と思いますが、余計なことを、と考えざるを得ません。