神 そらにしろしめす・・・か? その2

 神の存在を信じられる人達はある意味では幸福な人達です。“ある意味”というのは無い物ねだりをする徒労を思うからですが、信じることで心の平安を得られやすいのも事実ですから、信じることをとやかく言うことは出来ません。しかし神の存在を信じられない人がいることもまた事実で、おそらく神が信じられ始めた時からその存在を否定する人達もまた居たとしても不思議はありません。「史記」を残した司馬遷は自らの体験をもとに「天道」の存在に疑問を投げかけています(伯夷列伝)。キリスト教神学の究極の目的は神の存在を証明することではなく、不存在の証明が出来ないことを証明することと言われます。考えてみれば詐欺師のような論理ですが、かなり本気で取り組まれた(取り組まれている?)学問のようです。ともかく、神がテレビや新聞に出て声明を発表したこともないのでなかなか信じることは難しく、肝心のテレビや新聞にしたところでかなり“眉唾”ですから全ては闇の中ということになりそうです。
 世界中で起きている紛争の原因の一つにこの“神”があります。各々が信じる神が異なるために殺し合ったり憎み合ったりします。ヒトの欲望や思惑がこれに絡んで収拾のつかない事態が、おそらく何千年にわたって繰り広げられてきました。この一点のみを取り上げても神は罪作りだなと私などは思うのですが、神に名を借りたヒトの仕業だから神のせいではない、という考えもありますから混迷は深まるばかりです。どっちにしても神という概念がなければ成立しない事柄ではあるのですから、神様を創ったヒト?の責任は大きいと言わなければなりません。
 神にはひどい目にあわされたガリレオが「それでも神は存在する」と言ったかどうかは知りませんが、ヒトは超人間的な存在を置くことで幾多の危機を乗り越えようとしたり、自分の都合を押し通そうとしたのでしょう。考えてみると、神はまったく責任を取らない存在でもあり、この辺りどこかの方と似ています。これから先、神の存在がどうなっていくのか分かりませんが、ヒトが神を必要としない時が来るまでは世界のどこかで神は生き続けることでしょう。こんなこと言うと、いやそんなことではなくヒトがどう考えようと神は存在しているのだ、と信じている人々も居ますから話は堂々巡りのドツボにハマって出られなくなることになり、この話の様に何処で終わったらよいのか着地点が見つけられない羽目になるのが落ちかも知れません。お後も先もよろしくないのですがこの辺で切り上げたいと思う今日この頃でした。  おしまい。

神 空にしろしめし なべてみな 事もなし