似合わない仕草

明治以降の私たち日本人にとって、欧米の文化や習慣を生活の中に取り入れることは、豊かさを手に入れることと等しく、1945年の敗戦を機にその傾向は加速的な浸透を見せました。生活様式のような外面的変化は自然な形で根付きましたが、仕草や立ち居振る舞いといった内面的な部分が背景にあるものは、一朝一夕では変わらずにいるように見受けられます。深々と頭を下げる挨拶や自己主張を遠慮する風潮、曖昧な笑いなど欧米とはかけ離れた習慣が未だに色濃く残っています。しかしこのところそれらを覆すかのような変化が起きています。「サム・アップ」と「ハグ」というアメリカ的な風習です。
「ハグ」という習慣は欧米では日常的な行為ですが、私たちの国ではあまりお目にかかりませんでした。「サム・アップ」の由来は、ローマ皇帝が闘技場で敗者に対して“生殺与奪”を決定するときにやった仕草を真似たもののようです。人の体に直接触れるのを避けることを礼儀としてきた私たちは、人前で抱き合うことなどはタブーでした。また、謙譲を美徳とした歴史は、奢りの象徴とも言うべき皇帝の仕草などは相容れないものであったのです。けれど「ハグ」はこの国でも、子供や犬、猫、場合によってはトカゲなどに対しても人前でやられますから、まあ時と場合によれば有りうる行為と申せましょう。しかし「サム・アップ」だけは私たちがどうやっても猿真似の域を出ない仕草で、人前で得意げにあれをやる人を見ますと、“バーカ”と心から蔑んでやりたくなるのは私だけなのでしょうか。あれだけは止めたほうが良いと常々思っているところなのです。
原発の存続を問う住民署名」の採決が過日都議会で行われた折に、「サム・ダウン」を傍聴席に向かってやった都知事は、きっとローマ皇帝にでもなったつもりでいたのでしょう。故佐藤 春男から芥川賞選考に際し、”不慎太郎”と呼ばれ「美的節度の欠如」との評価しか受けなかった”元3流作家”の、精一杯の虚勢にはふさわしい仕草であるやもしれませんが。
 
 何なの 私の仕草 文句ある