十九日目

 ”望外の出来”という言葉がある。予想していたよりはるかに良い結果が得られたことを言う。私にもそんな経験がある。調布の神代植物園はしっかりした温室があるから冬でも珍しい花を見ることが出来る。バラの季節、梅の季節、牡丹の季節と季節ごとの花も見事な植物園だ。ある年にその植物園で撮った花の写真がまさに”望外の出来”だった。背景のボケ具合と言い、花の表情と言い、ただ闇雲に撮っていただけだったのだが、きっとそれが良かったのかも知れない。山に重いカメラを持って出かけかなりの枚数の写真を撮っているが、打率は1割程度、とてもクリーンナップは打てない。あの年の花の写真に匹敵する出来のものはない。

 近所の公園には野鳥の写真を撮る人が多い。望遠レンズを付けたカメラに三脚をはかせて構えている人が何人も居る。なぜか皆老人で若い人は見ない。たまに女の人も居るがほとんど男の年寄りだ。あの人たちも“望外の出来”を狙っているのだろうか。それともすでにセミプロの域に達しているのか、撮った写真を見たことがないので分からない。ただ道具だけはその域に達しているようだ。

 私の場合、撮った写真はPCの中に入れてそのうち整理しようと、思うだけで整理もせずにそのままファイルしてある。たまに見ることはあるが、フィルム写真時代同様に撮ったら現像だけしてそのままという、あの当時とあまり変わっていない。デジタルになったので現像する必要がないからその分楽になったし費用もかからなくなったから、撮る枚数も飛躍的に増えたのだが、下手な鉄砲は数を撃ってもなかなか当たらない。

 大分前になるが、ある人の家に行ったとき、大きなガラスのショウケースの中に何台ものカメラが陳列してあった。あの人はどんな写真を撮っていたのか、結局聞かずに帰ってきてしまったが、あの人はきちんと写真の整理をしていたのだろうか。オーディオの凄い高価な装置を持っていて、そちらの方に気が行ってしまったから聞きそびれてしまった。ああいう人は“望外の出来”なんてことはないのかも知れない。カネのかけ方が違うからすべて当然の結果として理解するのだろう。