加害者としての自覚

「新安保法制」案をめぐり戦争反対の声を上げる人が目立つようになりました。少し気になることがあります。それは被害者としての立場をことさら強調しすぎることです。もちろん戦争により多くの被害を受けるのは弱者と相場は決まっています。女性、子供は戦闘地域でも非戦闘地域でも多大の犠牲を払わされたのであり、それは侵略された国ではいっそう酷いものであったと思われます。中国や朝鮮で過去に日本が行った侵略行為に対して、現在に至るまで強い反発を抱くその原因は、まさに“侵略された側”の屈辱と被害者としての意識によるところが大きいと思うのです。
さきの国連で代表団の訪問地に広島を入れるかどうかでもめました。結局中国や韓国の反対もあり広島を訪問地としては選択しないこととなりましたが、この時も“日本は被害者意識ばかりに固執する”と言った声が中国・韓国から上がったと聞いています。広島・長崎が受けた悲劇は、単に戦争によるというよりは人類の愚かさ、傲慢さ、残忍さを象徴するかのような行為でもあり、ある意味では人類史的な視点の中で捉えられなければならない出来事と思われます。ですから一概に“被害者意識”とばかりは言えないと思うのですが、侵略された側にとってみれば加害者としての自覚の喪失と思えなくもないでしょう。もちろん“こと”はそんな単純ではなく、政治的、外交的な思惑があっての発言だったと考えられるのですが、日本政府に加害者としての自覚がどの程度あったのかは甚だ疑問と言わざるを得ません。
1910年(明治43年)に始まる「日韓併合」から1931年(昭和6年)満州事変、1937年(昭和12年)の日中戦争勃発を経て1941年(昭和16年)には太平洋戦争突入、そして1945年(昭和20年)の敗戦まで、私たちの国はアジアでどのような振る舞いに及んだのか正しく見つめる必要があると思います。その上に立ってこそ自分たちが戦争によってどれほどの被害を蒙ったのかということを語る資格があり、戦争に反対するという意思をより明確により強く訴えることが出来るはずです。

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