漢詩と和歌

私たちが普段使っている慣用句と言われるものには、漢詩や漢文の古典から来たものが多いことは良く知られています。「渇すれども 盗泉の水は飲まず」(猛虎行・陸 機)とか、「春眠 暁を覚えず」(春暁・孟 浩然)などというものです。どちらかというと硬いというか、お説教臭いものも多いのが特徴とも言えます。ただ和漢混合文は調子が良いので、話の中に取り入れると締るというか、決まるというか、日常会話の中にも良く使われます。漢詩は情景描写や意気込みを表現したものが多く、私も詳しくは知りませんが女性がつくった漢詩というのも無いのではないでしょうか。もっぱら男それも文人と呼ばれるような知識人や政治家がつくってきたようです。いきおい硬く理想を謳うものが主流となるのでしょう。
それに比べるとこの国の和歌は恋の歌が多く、理想やら訓辞を垂れるようなものはありません。女性の作者が多いことも特徴で、日常の様々な描写やもちろん愛情表現、嫉妬、落胆など、言ってみればありとあらゆることを歌にしています。必然的に男のほうもそれに応えるように恋歌や日々の出来事を上品に歌い、また“優しい”と言われた“しとやかで美しい”ことを大事にした歌をつくるようになったのでしょう。「花鳥風月」と言われるテーマが恋歌に取り込まれてつくられる、いわゆる風流なものとなったのです。和歌も漢詩も大きく括れば「詩」のジャンルと言えるのに、民族性というか何というか、所変われば品変わるの例え通りにかなりの相違が目立ちます。
ゆうぐれは 雲のはたてにものぞ思ふ 天つ空なる人をこふとて
これは古今集の巻十一に出てくる“よみ人しらず”の歌で、一般に片思いの歌として有名です。こういった歌(あるいは詩)は漢詩には見当たりません。
少年 老い易く 学 成り難し 一寸の光陰 軽んず可からず
などと言われてしまえば、“雲のはたて”も何もありません。因みに“雲のはたて”とは雲の果てと言ったような意味だそうで、遠いところにいる(好きな人が)ことを表現したのだそうです。
で何が言いたいかと言えば、日中関係は一筋縄ではいかないという・・・。

あーまた土日だわ、ゆっくり休めるわ