縁がないものとして挙げられる一つに“詩”があります。短歌や漢詩は馴染みのある部類と言えますが、“ポエム”や“ソネット”といった類はまるで別世界で、現代詩などはもうなにが何やら見当もつきません。ですから読まない、見ないでずーと済ませてきました。
 しかし、欧米では詩に対する評価は昔から高く、詩人は尊敬の対象であったようです。ドイツでもフランスでも、もちろんイギリスでも詩に対する世間の評価は高く、物書きの中でも一目置かれる存在であると言います。私達の国では、詩人は貧乏とセットで考えられていますし、世間の評価も変人扱いです。“ブック・オフ”に行きますと詩集が並んでいますが、大体100円コーナーに集まっています。
 短歌はこの国の文化を支えてきた大きな柱ですが、いわゆる“詩”とは趣が異なりますし、限られた字数の中で多くを語る必要上、省略や暗示、連想を仕掛けて、読むものに少しばかり訓練を強いる傾向があります。また、そのような仕掛けを楽しむものでもあります。しかし自らの思いを吐露したり、相手に伝えようとする手段としては、“詩”それも凝縮されて洗練された詩と言えるでしょう。惜しむらくは、あまりに短いためどうしても数をこなさないとボリュームに欠ける訳で、箇条書き風な詩集となるきらいも無くはありません。“俳句”は世界で最短の詩と言われます。尾崎 放哉や山頭火などのように殆ど抽象絵画のような、独特の世界を形づくるものもありますが、日本語以外で表現するのは難しい世界であろうと思われます。どうも短歌にしても俳句にしてもグローバルではないようです。
 イギリスではシェイクスピアの抜粋を口ずさんでお金をねだる物乞いが居ると聞いたことがあります。シェイクスピアの台詞はそのまま詩ですから、朗読を聞くことの好きなイギリス人は喜ぶでしょう。詩はもともと朗読されることを前提に創られていたと言いますから、シェイクスピア物乞いは伝統にのっとったものとなるのかも知れません。しかしこの国で突然目の前に立ち「消えろ 消えろ つかの間のともしび・・・」とやったら胡散臭く見られるだけで、お金を恵んでくれる人は居ないでしょう。詩が巷には根付いていない国なのです。
  
 詩なんて笑わせちゃうわね