あはれいかに

あはれいかに
草葉の露のこぼるらん
風立ちぬ  宮城野の原
この歌は西行のものです。流れるように分かりやすい歌です。「あはれ」という言葉が、今のように「哀れ」として使われるようになったのは、いつ頃からなのか詳しくは知りませんが、平安の頃にはすでに悲しみを表わす言葉として使われていたようです。しかし、なんといっても主な使われ方はこの歌のように、しみじみとして趣き深い意味としての言葉であったと思われます。
あはれ 秋風よ 情(こころ)あらば伝へてよ
で始まる「秋刀魚の歌」では、「憐れ」としての使われ方であろうし、“あわれを誘うねえ”などと言う場合は、もろ「哀れ」を表現します。
もののあはれは秋こそまされ
という件は「徒然草」の十九段冒頭に出てきますが、この場合は“しみじみとした”と言ったような使われ方で、西行の歌と同じような意味合いだと思います。
秋と絡んだつかわれ方が多い「あはれ」ですから、春とか夏、朝、太陽と言った言葉との相性は良くないようで、あまり見かけません。月、夜、風、夕暮などと言うものとのお付き合いが深い言葉であると言えるでしょう。
“んだから何だよ”と言われそうな流れですが、実にこの何でもないというお粗末で、ただ秋が来たなあ、と思った台風一過の空だったのです。
蛇足でもう一つ。やはり「徒然草」の第二十段に、
この世のほだし持たらぬ身に ただ空の名残のみぞ惜しき
とあります。その日の空との名残が惜しい、という意味だそうですが、今日の空はまさにその名残惜しい空でした。“あはれ”を感じる空だったのです。
ついでだからもう一つ。
夕ぐれは 雲のはたてに物ぞ思ふ あまつ空なる人を恋ふとて
古今集にある歌で、これも“あはれ”を感じる歌です。こんな歌を送ってみたいものです。

羽布団 あはれかし