老頭児

私の記憶違いでなければ中国語で「老頭児」は「ロートル」と発音する言葉で、普段私たちが使っている「ろーとる」の語源となったものであると思います。私たちはこの「ろーとる」をあまり良い意味では使っていませんが、もともとは「長老」などと同じように尊敬語の一つであったのですから、「ろーとる」と呼ばれたら胸を張って“何だ”と威張るぐらいの気持ちで答えるのが正解と言えそうです。
徒然草」の第百七十二段では、若い時は血気がはやって危ないことをしたり、派手に走るかと思えば地味な生活に憧れたり、心が定まらずに身を誤ることが多いなどと言っております。そして、最後には「老いて智の若き時にまされる事、若くしてかたちの老いたるにまされるが如し」と結論付けています。老人となるものにとっては大変心強いお言葉で、“卜部さんありがとう”とメールでも打ちたい気分ですが、しかし誰でもがそのような老人となれるかと言えば、これがまた甚だ心もとないことも事実で、ただ単に馬齢を重ね呆けてしまっただけという老人も数多くあちこちに散らばっているのです。
かく言う私などは、こう言っては何ですが近頃では、若い頃より経験の蓄積がものを言うようになったとか、世の中の仕組みや流れの理解が深まった、あるいは情欲に溺れることなく(溺れようにも干上がっていて、溺れようがないという実態もあるのですが)、身をつづまやかに保てるようになったと思うことしきりなのですが、どうもこのように考えているのは自分だけらしく、余所様から見ると“何にも変わっていねーよ”思われているようで、どうも卜部さんの言うところの“老境”には程遠い辺りを彷徨っているらしいと思われます。しかし、そのように“思えるようになった”と言うところが私にとって長足の進歩でもあり、「ろーとる」として自信をもって良いのではないかなどとも考えております。まあ、結論から言えばあちこちに散らばっているうちの一人で、“田へしたもんだよカエルの小便”ほどのものでしかありませんが。

手かざし その2