孔子

憤りを発して食を忘れ 楽しんで以って憂いを忘れ 老いのまさに至らんとするを知らざる
 今からざっと2500年前に生きた人の言葉が、昨日言われたかのように思えるのは不思議なものです。老境に至った孔子が自らのことを表現した言葉だそうです。私の場合で言えば、
憤りを発してもなお食い意地減らず 楽しんでも依然としてぐじぐじ悩み 老いのまさに至らんとするを知ろうとしない 
となるのでしょう。同じ老境でも所変われば品変わります。しかし、その思いの本質は紙一重、いやあ二重ぐらいですか、それほど変わり映えしない、と思うあたりが天と地とも違うのかもしれません。まあ孔子さんもあっちこっち行ってはすげなくされたり、悪口言われたりで、いい加減開き直っていたらしく、この後生まれ故郷に帰って弟子と愚痴を言いながらのんびり暮らしたようですから、偉人、聖人と後の世で言われても案外普通のヒトだったかもなんて思ったりもします。
 孔子さんに限らず、ソクラテスやらアリストテレスなど、紀元前に活躍した人たちの発想の豊かさには目を見張るものがあるようですが、何の仕事もせずにただあれこれと、思考することにのみ生涯を費やせる意思とその環境に、驚きと羨望とそして時間の隔たりを感じます。今じゃねえ、一人の人間がいくら考えたところで、同じような考えは誰か知らがとっくの昔にやっているだろうし、ネットで検索すれば同じような意見は山のように出てくるご時世ですから、一言二言ノタマッテ他人を感心させることなどは無理な相談と言うべきでしょう。良い時代となったのかそうでないのか それが疑問だ!という・・・。
 知ってましたか、あの「ミロのヴィーナス」は紀元前100年頃の作だそうです。紀元前の人たちは知的でもあり芸術的でもあったのですねえ。ヒトは進歩してねーなあ。
 
  孔子ねえ 眠いねえ