小説を読む

読み物あるいは物語を読むとも言いますが、作家が創り上げた虚構の世界に入り込んでしばし時間を潰す行為をヒトはいたします。椎名 誠の初期の作品「もだえ苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵」という本は、そのまま題名通りの与太本ですが(あの頃の椎名誠は面白かった)、活字に餓えた男の(詳しい筋は忘れました)話であったと思いますが、この小説と言いますか物語を読むという行為に異常な執心を示すヒトの、ある意味での本質に迫った(でもないか)部分を炙り出したものでもありました。
私は15歳になるぐらいまでは本らしい本は読んだことがなく、字が書いてあるのは教科書と新聞ぐらいしかないという世界で育ちました。では何を読んでいたかというと漫画で、これは20代後半まで続くのでした。ただ高校に入ったころより何のきっかけであったか忘れましたが五味川 純平の「人間の条件」を読み、本を読むことの面白さに気付いたという、見方によってはとてもキザッタらしい経験を持つのです。その後いろんな本を読むようになるのですが、速読、斜め読みが今もって抜けず(これは漫画を読む行為が元になったと思いますが)、物語の細部に目が行き届かない読書を今も続けています。しかしこれにはメリットもあり、一つの本を2度3度と楽しめることです。今日もまたその2度目の小説に関わっていて、高村 薫の「太陽を曳く馬」の下巻の中ほどまで読み進んでいます。この小説は「晴子情歌」、「新リア王」と続く長編の最終章で、ともに上下2巻の読み応えのある本です。すでに1度は通して読んだのですが、3部を突然再読し始めました。すると1部の内容が気になり始め、結局「晴子情歌」から読み直す羽目になりそうです。しばらくは読む物に困ることがないようで、このように雑な読み方も功徳があるという、実にどうもどうでもよい話でした。
 

どツボにはまる