春のギャラリーを終わって

“春のギャラリーを終わって”などと言うほどのことではないのですが、書くことも浮かばず、“○○を終わり”なんて言うよくある後日談風に何かデッチ上げようという魂胆で書いてみただけのことなのです。
先週の記事の中でも少し触れましたが、抽象絵画が一連の絵画運動の中でのある意味到達点、という部分について、もう少し考えてみたいと思っています。絵を描くという行為はかなり高度な抽象概念を持つ生物でないと出来ないものであると言われます。対象を観察し形態をつかみ、その後に脳から手にその形態を再現する指令を出して、とここまででもかなりの高度な作業をこなす訳ですが、さらに再現に当たっては対象物との誤差を極力少なくし、つまり修正を加えながら対象に近づける作業を行うのです。これは物の形を単純に写し取る作業のみでの話で、色や印象、あるいは立体感、光などを考慮するにはさらに複雑な行程が必要となります。線描から始まり立体感をつけ、色や明暗、そして抽象的な“印象”という表現に至ります。印象はさらに対象の本質に迫り、描く者の心象を通した新たな抽象概念の表現を創り上げました。抽象絵画はそんな行程の中で生まれたと思っています。絵画が行き着く先にどのような表現方法があるのか、私も全く分かりません。けれど画家の思いは「描く」ことへの集中であろうし、「描きたい」という欲求を貪欲に追及することであるのだから、さらに描く対象に密着し本質の解明に力を注ぐことでしょう。
アンフォルメル」という形態を持たない表現形式の絵画運動は、抽象絵画の一つの方向を生み出し、究極の絵画は何も描かない、つまり白いキャンバスのみの作品さえ提示しました。絵画が行き着く先として何も描かないとしたら、それは絵画の否定でもありうる訳で、そういった流れに対する回答として写実や具象という分野に注目が集まっているとも考えています。いずれにしろ、白いキャンバスは絵画の終点ではないでしょうから、そのうち新しい絵画の表現形式が出てくると期待しています。ただ懸念は、絵画に対する期待が甚だ希薄になっていることで、これは芸術一般にも言える、ある意味深刻な社会現象でもあるのです。
 

やっと日常に戻ったのね