読書百遍 意おのずから通ず・・・か?

 私の本の読み方は乱読でおまけに斜め読みだから、小説などの物語でも途中で話の筋が見えなくなることがある。推理小説などは伏線やら仕掛けが施してあるので、ボーと読んでいると突然の展開についていけなくなる。そういった時には慌てて前に戻って読み返すことも度々なのだ。ましてや学術系の本ともなると一度読んだぐらいではとても歯が立たず、と言って一度読んでしまえば新鮮味に欠けるので二度目はさらに雑な読み方になり、結局しばらく時間をおいて再読することになる。忘れた頃に手にする本は文字通り忘れていて、一から出直しの羽目になることも多い。“読書百遍・・”というが行うは難しで、こういった本はせいぜい三遍辺りが限度だから、本の中身を完全に理解することは至難のことと言える。
 考えてみれば、小説ならともかく学術系の本を次から次に読みなお理解してしまったら、手間暇かけて研究している学者先生達の立場がない訳で、お互い他人の領分には踏み込まない不文律の上に成り立っているこの世の中(ただこれも程度問題で、閉鎖的な方向に進むと“原子力村”などの悪しき弊害を生むのだが・・・)なのだから、それに従って生きる術を自然のうちに身につけていると喜ぶべきなのかもしれない。理解力の悪さを正当化する負け惜しみの言い草とも取られそうだが、小説にしろ学術系の本にしろ面白いと思って読むのが一番で、作者の意図だとか細部の理解は結果的に分かれば良いし、分からなくても一向に差し支えないぐらいでも読書のだいご味は変わらない。つまらない本を百篇読んだところでやはりつまらない。

まあ 怠け者の言い草ね。