神 再び

以前に神についての与太話を書きました。いつもの友人からまた本が来まして、その中に「ヒトはなぜ神を信じるのか / ジェシー・ベリング著」というのが入っていました。まだ半分ぐらいしか読んでない(この本の中で、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」に触れているところがあり、そちらを読み始めてしまったからなのです)のですが、やはりキリスト教の盛んな国の人たちにとって神は無視できない存在らしく、信じていても信じていなくても本にするほどの影響力を持っているようです。日本で神を題材にした本はあっても、その存在をあれこれ考える本はあまり見かけません。私たちがいかに神と共にいないか、神を忘れているのかの証拠でもあるでしょう。
ラテン語で言うサヨナラのあいさつ“バイヤ・コンディオス”とは「神と共に行け」であり、キリスト教社会では別れ際に「神のご加護を」という習慣があるようです。こういった挨拶だけに神様が出てくるのなら良いのですが、頭に布きれをまいて銃弾を肩掛けしている皆さんは、「アッラーの神は偉大なり」などと言いながら銃を乱射しているようですし、あれだけキリストへの信仰心が深いアメリカでも、銃の乱射は日常茶飯事となっています。どうも神さまは銃にご縁があるようで、イスラム教とキリスト教、それとユダヤ教が無ければこの世界から紛争の殆どが無くなってしまいそうな気もします。
“神が居なければ宗教もないのか”といった疑問が成立するかどうか、まさに疑問ですが、神を欲しがる人たちがいることを(この辺りの疑問に「ヒトはなぜ神を信じるのか」が答えてくれそうなのです)否定する訳にもいかないでしょうから、もっと寛容な心を持った神に宗旨替えしてもらうよう、国連ででも決議して紛争解決に踏み出したらいかがでしょうか。まあ、そんなことをしたら火に油を注ぐことになるかもしれず、もともと国連もそれほど力ないし、比較的他の宗派に寛容な仏教の中にも、日蓮宗のように他は一切認めないという排他的なのもあるくらいだから、じつこのどうも神や宗教は面倒で厄介な代物と嘆息する訳です。
 
 神のポーズ