「セロ弾きのゴーシュ」

 言わずと知れた宮沢賢治の童話です。賢治の童話をすべて読んだわけではないので「セロ弾き・・・」が最高傑作かどうか断定できませんが、私にとっては賢治の童話中の一番なのです。この童話のどこに惹かれるのか考えたことがあります。猫、カッコウ、狸、野ネズミと次々とやって来る珍客とゴーシュとのやり取りも面白いのですが、最後にゴーシュが「ああ かっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」と言う件が一番好きです。動物たちとこんなに分け隔てなく語りあえ分かりあえる世界に対する羨望を感じるのです。
 ヒトとヒト以外の動物との関係は、その昔から敵対、捕食、主従など様々ですが、近頃では“家族”というカテゴリーに入るケースも多く、家畜、食料という“本流”をしのぐ勢いです。もちろん多くの場合は“本流”であり、牛、豚、鶏、羊を始めとする多くの哺乳類、魚類、甲殻類などの海生生物を食料としている訳で、“家族”と言えどもいつ何時食料に変わるかも知れない、とにかくヒトはなんでも食ってしまう悪食の持ち主ですから、ヒト以外の生き物にとっては油断できない存在であることには違いないのでしょう。そのような現実世界を踏まえると賢治の世界は羨望の的となるのです。
 私も良くは知りませんが、キリスト教イスラム教が神を頂点としたヒエラルキーを持ち、ヒト以外の動物はヒトの下に置かれるという差別的構造を容認しているのに対し、仏教は輪廻転生で基本はみな同じという、水平的な広がりの中での世界観を許容しています。これはまさに賢治の世界に共通している部分ではないかと思われます。おそらく西洋社会や中東社会では賢治を理解できないのではと考えたりもします。宗派や思想の違いを理由にした諍いや殺し合いを、私(おそらく多くの日本人も)の感覚では理解しかねるのですが、一神教世界観に支配される社会の不寛容さと貧困が結びつくことで起こる悲劇、などと他人事のように思って済ませています。どうも賢治のようなナイーブな世界観には程遠いなあ、と嘆息しているばかりです。

嘆息などしているよりは・・・