突然ですが 死ぬことは怖いですか その3

本題に入る前に、昨日の都議会で「原発の是非を問う住民署名」条例案が、自民党公明党の反対で否決されました。国政同様で民主党もひどいけど、自民党とそれにつるむ公明党はなお一層たちの悪い集団であることが際立った日でした。まったくムカつく。
では気分を変えて本題に。
仮に自分の残り時間が判明したとして、準備万端、用意は全て整ったとしても、最後の瞬間に七転八倒の苦しみが待っていたとするなら、これはちょっと勘弁して欲しいと私ならずとも考えることでしょう。死ぬことが初体験なうえに、その先はどうなるかも分からず、おまけに苦しまなければならないのは、やはり恐ろしいことであり、そんな事は先送りしたいと思うのは人情です。そこで、どうせ死ぬのであればせめて苦痛や痛みの伴わない「死」というものを望むのは、決して無理な注文とは言えないと思うのです。どうもこの点になると医者も社会も行政も二の足を踏みます。「安楽死」や「尊厳死」は高度に発達したヒト社会の最も進んだ医療行為とも考えられるのです。突然前触れもなく結論が出てしまいましたが、「死」が特別で非日常でもないという事実を、率直に認める勇気を持つことが出来るなら、「安楽死」や「尊厳死」は当然の帰結とも言うべき結論であるように思えるのです。“いや私は「○上死」が望みです”という人には特別のメニュウが有っても良いと思われ、死に方も幾つかのメニュウがあるというシステムが確立されることが、より望ましい社会の在り方ではないでしょうか。生きている内はいろいろ制約やらあるし、痛い思いや辛い思いもしなければならないのですから、死ぬ時ぐらいは我儘を言ってもよいと思います。
「When I die, I know , I am going to heaven, Because I have spent my time in hell」
ベトナム戦争の時に米兵の間で流行った文句だそうです。そんな過酷な人生ではないにしても、やはり人生の最後は楽しく明るくいきたいと、例えその先に天国はないとしてもそう願わずにはいられません、一度限りのことですから。私はもちろん「安楽死」を希望(そのような制度があれば)したいのです。その上で、いつもの写真の方に傍らで鼻でも舐めてもらい、お腹の毛に顔をうずめながら昇天するというシナリオを考えているのですが・・・、なんせ気難しいというか、勝手というか、なかなかに言うことを聞く方ではないので、願いは叶いそうにありません。(おしまい)

 
 鼻ぐらいは舐めてやるわよ