少し長い話となりますが・・・その2

その昔この国には「武士」なる者が居て、「武士道」では「死」を恐れることは恥ずべきこと、「切腹」は作法として学ぶべき事柄とされました。しかしこれらの考えは戦前の日本で悪用され、「神風特攻隊」や「玉砕」など非合理的な軍隊思想と結びつき、多くの人たちを死に追いやりました。もともと「武士」と呼ばれる階層は、江戸時代では全階層の1割程度であったらしく、ほとんどが農民、そして町民と呼ばれる職人や商人などがその後に続く階層であったと言います。つまり明治以後の富国強兵策の中で、百姓、町民がむりやり「武士」の意識を持たされて兵隊として酷使されたということでしょう。“侍ジャパン”などというチーム名がありますが、侍、武士の子孫などは今となっては数えるばかりで、ほとんどが農民、百姓の子孫です。あれは“百姓ジャパン”が正しい呼称です。
話が大分ずれましたが、自殺を肯定的にとらえるという考えは、来たるべき高齢化社会にとって避けては通れない発想ではないかということなのです。なぜなら、死ぬこと自体は特に目新しいことではないし、誰にもやってくるものです。繰り返すようですが、早いか遅いかという違いはあれ、生物はその寿命を閉じます。「健康長寿」が理想とよく言われますが、確かに年齢と体力、気力の関係は個人差が大きく、一概に高齢イコール不健康とはならないので、死ぬことなど考えたこともない老人も居るようです。ですから、そういった方たちは百歳でも二百歳でも生きていただいて結構なのです。しかし、私のように70歳を過ぎたらもう生きるのも疲れるし、体が思うように動かなくなる前に自分の始末をつけたい、と考える人もまた少なからず居ると推察いたします。そこで、もっと気軽に楽に死ねる社会的コンセンサスの形成という課題についての議論を、大胆にかつ勇気をもって始める時ではないかと考える次第なのです。

議論のテーマは大きく分けて二つです。一つは「死」が特別の事象ではなく生きることと同じ次元で論じられるべき問題であること、二つ目はいわゆる「安楽死」の技術的な開発と研究の2点があげられます。「安楽死」の技術的な問題については、現在の医療技術をもってすればさしたるハードルは無いでしょう。一つ目の「死」をどのようにとらえるかという問題は少々厄介で、洋の東西を問わず、また歴史的にも一貫して否定的な扱いが一般的でした。それには死への恐れ、宗教上の教え、周辺の喪失感、種の保存に不利などなど、いくつもの理由が挙げられます。「死」が恐ろしいという感情は、痛みを伴ったり死んだ先のことが分からない、といった不安が背景にあると思われます。痛みや先行きの不透明感については技術と論理で乗り越え、宗教上の教えやその他モロモロについては各人の判断を待つよりほかに解決法はないように思われます。「死」が本人以外の周辺に与える影響は様々ですが、近親者や友人などの喪失感をどのように解決するかという問題は無視できません。おそらくこの問題の解決法が一番難しく、私もこれと言った名案が浮かびません。しかし、「死」という概念の理解を深める中で解決出来得るものと考えています。
また「自殺」という呼称もあまり建設的とは申せません。例えば「選択死」とか「完結死」などと言った積極的な面を強調する、あるいは「ライフ・フリー」、もしくは「アース・リターン」とか訳の分からない横文字呼称にするかして、暗いイメージを払しょくすることも、この議論を進めるうえで大事なポイントであろうと考えます。要は「自殺、死」は身近なもの、決して恐れたり忌み嫌うものではない、という概念を構築することが肝要なのです。

しかし、ヒトは「不老不死」を求めて「火の鳥」を探したりする生き物で、古今東西を問わず、とくに権力と富に恵まれた人々は「死」を恐れ、遠ざけることに心血を注ぎました。もちろん私も含めて市井のヒトにとっても「死」は決して身近な存在とは申せません。とは言っても一定の年齢を超えれば必ず向き合わなければならないものであり、長生きをすればするほど他人の死に出会うでしょう。ですから、そうなった時に慌てるのではなく、事前の準備と言いますか、「生」と「死」は表裏一体という認識を平生から培う必要を思うのです。
 
ここまで書いてきて、「死」は「生きることって何だ?」と言った問題にも密接に絡んでいることに気がつきます。「アポトーシス」という言葉を聞いたことがあると思いますが、細胞の「プログラム死」とでも言いますか、要するに予定された計画された「死」なのです。生物が死ぬことは、言ってみれば生物が生きていくために必要なプロセスな訳で、計画的に寿命を終わらせることで種の繁栄を図ってきたとも言えるのです。生物の始めは例の「DNA」です。「デオキシリボ核酸=DNA」と呼ばれる高分子体は私たちを含む生物のすべての共通項です。この「DNA」によって私たちは形作られ生命活動を維持していると言って良いでしょう。では「DNA」が生命そのものかと言うと、必ずしもそうとは言い切れないのですが、この「DNA」による指示書に基づいて私たちの細胞の成長や「死」が決められているのですから、生命の源と言って良いかもしれません。
リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」では、私たちヒトの体も含めて生物体の体は「DNA」を運ぶ道具のようなものであるとされ、「DNA」を次の世代に受け継ぐために開発された乗り物とまで書かれています。「DNA」が意志や思考を持っているとは思いませんが、私たちの行動の多くは「DNA」によってバイアスがかけられていると言えるでしょう。食べる、眠る、排泄すると言った本能的行動は言うに及ばず、生殖に伴う様々な感情や行動、家族やテリトリーを守ろうとする習性などは、まさに“指示書”に従った行動と思われます。ヒトは他の動物よりはやや複雑な部分がありますが、基本的行動はほかの生物同様に「DNA」の“意向”に沿ったものであると言えます。その「DNA]が「アポトーシス」という機能を備えていることは、「死」が生命体の終わりではなく、次の世代への“変身”のための一過程と考えられないでしょうか。「メタモルフォーゼ」などという一昔前に流行った言葉を思い出しますが、まさに「死」はそれではないかと考えています。
 

ホント長いのね