コレクション

 ヒト以外の動物では決してしないことの一つに収集癖がある。犬が履物を集めるというのを聞いたことがあるが、確かめたこともないし一般的という訳でもなさそうだから、やはり収集癖と言うのはヒトだけにあるものなのだろう。
 収集癖とまでは言わないにしても、ヒトは余分なものまで身の周りに置きたがる。日常使うものにしても一つだけでは済まない。着るものなどは“箪笥の肥し”と言うような例えが生まれるほど余分に持つ。靴、鞄、時計、食器・・、みな同じようにひとつでは済まない。そういった日常のレベルをはるかに超えた収集をコレクションと呼ぶ。これはお金の有る無しに拘わらずヒトが罹る病気のようなものと言える。ほとんど場合、収集する本人が死んでしまえば単なるガラクタの寄せ集めで、かなり高価なものであっても本人以外興味がないか価値を認められないことが多い。個人のコレクションが後世に引き継がれる場合もあるが、とんでもない資産と高い審美眼に恵まれた少数の人にしかその栄誉はやって来ない。
 それでもヒトは何かに魅せられたように、あるいは正気を失ったように、食べるものを節約しても“物”に執着し集める。手が二本しかなくロクに弾けもしないのにギターを何本も買ったり、使いもしないナイフを集めることに現を抜かす。壁一面に棚を創りレコードを集めている人の家に行ったことがあるが、聴いたこともないものが多くあると言っていた。本のために一軒家を買った人も居るというから、この癖は侮れないほどの負担をヒトに及ぼす。蝶や昆虫のコレクターともなると殆ど狂気の沙汰といった惨状を示すことが多い。しかし収集者本人は自らのコレクションに深い愛着と拘りを持っているから、他人がなんと言おうが陰口を言われようが一向に気にならない。集めたガラクタに囲まれて陶酔の境地を彷徨うのである。考えようによっては幸福な人達なのだが、周囲は辟易、勘弁してよとのケースも多いから、あまりこの道に深入りするのは避けた方が良いと言わざるを得ない。
 こうしたガラクタの束縛から逃れる手立てを夢想したことがある。“フリマ”にガラクタを並べ片っ端から売っていくのだ。値段はお客が決める。付けた価格の理由を聞き納得すれば言い値で売る。掘り出し物を買った時の楽しさ嬉しさを思ったからだ。全部売り払った時の解放感を考えると魅力的なのだが、未だ物への執着心が勝り実現は程遠い。

こういったものは集められない。