願望、じゃなくて妄想かなあ

レイモンド・カーヴァーの短編で「ダンスしないか?」というのがあるけど、庭に家財やら何やらを並べ売っぱらう話で、私もそういった衝動を前から持っていた。家にあるガラクタを一切合財売り払ったらきっとすっきりするだろうと思う。古道具屋とかその筋の商売人に売るのではなく、庭先とか公園の“フリマ”で、値段なんかその時の気分で付けて、気にいった人であればただで上げてもいいし、買う人の眼力を見るために値段をつけさせたり、日長一日をその為に使ってみたいと思う。
ものに執着してなかなか捨てられず、その上物欲が強いから次から次と欲しいものが出てきて、気がつくとガラクタの中に暮らしているという、そういった環境を一掃したいという願望がいつもくすぶっていて、ときどきその衝動に揺り動かされるのだけれど、実行されたためしがない。
モンゴルという国はかつてユーラシア大陸のそのほとんどを支配するという、強大な力を誇示した帝国であったと言われている。しかし、その帝国の痕跡は今は無い。馬上から矢を打ち疾風のごとく各地を席巻して、金品を略奪、女を奪い、遣り放題、し放題であったと記録に残るが、城塞も都市も墳墓も残っていない。チンギスハーンという大王のお墓さえ不明なのだ。作家の開高 健がモンゴルの旅行記を書いているが、その中で移動式住居“ゲル”を畳んで移る時にはその痕跡がほとんど残らないと驚いていた。ヒトの住んだ痕跡がきれいさっぱり消えているというのだ。おそらくチンギスハーンの昔からそういった伝統の中で暮らしていたのだろう。ヒトがものを蓄えるようになるのは定住生活をするようになってからと言われるが、農耕と共に生きてきた私の祖先たちは、モンゴルの民たちのものに執着しない習慣を身につけることなく、ゴミゴミした狭いところにものを詰め込みながら、明日の心配をしてさらにものを貯めこみ、そうすることが豊かと思うようになってしまった。私はその伝統を文字通り受け継ぎ、ガラクタに囲まれることで豊かさを実感し、安心する生活を今なお送っている。
もう今さら変えることは出来ないけれど、季節の変わり目や空の青さが染みる頃になると、一切合財チャラにしたい衝動が突き上げてくる、のです。

一人静