言葉に魅せられた人たち

 詩人、作家など物を書くことを生業としている人達は、何のために物を書いているのだろうと考えることがある。読者という存在がなくても人は言葉を操り並べてみたいという欲求が有るように思う。しかしまったく誰にも読まれない書き物は、はたしてどんな意味が有るのかまたは無いのか、簡単には結論が出せない気もする。
 俳句という形式の表現方法では、使われる文字そのものが少ないために幾つもの意味を言葉に乗せて使う。無限に単純化された言葉は様々な意味を持つ。俳句は抽象絵画と同じと言われる所以だ。しかしこのことは作者に多くの労力と犠牲を強いることとなり、俳句で大儲けした話は聞かない。エリート会社員からやがて独りになって赤貧の中で生涯をとじた尾崎 放哉の例を引くまでもなく、幾人もの才能が言葉の魔力の虜となった。
 「小説家を見つけたら(原題 Finding Forrester)」という映画では、ショーン・コネリーとロブ・ブラウンの二人が言葉に魅せられた者同士の友情を、NY・ブロンクスの街を背景にして描いていた。ダンテやゲーテ、シェクスピアを生んだヨーロッパ人は新天地アメリカでも言葉の持つ魔力を忘れなかった。そして、ミシシッピー河の水先案内人や6本指を持つ猫の飼い主達がその息吹を受け継いだ。
 世界で最初に言葉に魅せられた女性はおそらく清少納言だろう。彼女は言葉の持つ響きや語感に敏感で繊細な感性を持っていた。「枕草子」はそれらを余すことなく伝えている。現代に生きる私には到底感じることの出来ない豊かで深みのある情感を、言葉ひとつ一つに与えそして感じていた。あの時代、「源語」や日記、和歌などを残した日本の女たちは、世界で一番知的で教養に溢れていたのかもしれない。

王朝時代に負けない私・・・。