信と義

 “信じて、お願い・・・”などの「信」であり、“渡世の義を忘れちゃ・・・”などの「義」である。ともに当てになるようで当てにならない、蒟蒻のふんどしのようなものである。 にも拘わらず古今東西の様々な格言に使われたり、本のテーマになったりしている。有るか無いか分からないような、でも有ってくれればうれしい、そう言った願望がなせる無い物ねだりのようなモノかも知れない。
 孔子先生はこの「信」と「義」を大変重要なものと考え、君子たるものこの二つを備えていればしめたもの、と思っていたそうである。しかしその孔子先生ご本人にしてからこの「信」と「義」おまけに「知」さえ備えていたにも拘わらず、その晩年は決して恵まれた生活とは言えず、全く世の中のボンクラどもは・・と嘆いていたようなので、どうもこの二つのモノは持っているだけでは駄目で、第三者がそれに応えてくれなければ何の意味を為さないモノらしい。
 太宰 治の“走れ メロス”はこの「信」と「義」をテーマとした小説らしく、私は教科書でその抜粋を読んだことが有る。よく覚えていないが、何か無茶苦茶な約束を守るためにやたら走る話のような記憶しかないが、作者本人が自殺願望の末、心中未遂を繰り返し、その都度相手は死に自分は生き残り、三度目あたりでやっとご本人もめでたくかの地に行かれたというのを後で知り、呆れてきちっと原作を読む気にならなかった話である。だからあまりのことは言えないが、やはり、この「信」と「義」は当てにしていけないモノなのではないのだろうか。
 にゃん子は信も義も超越している。「そんなもの関係無いもんね」といった態度が随所に表れている。孔子先生もにゃん子と暮していれば晩年嘆かずに済んだかも知れない。しかし、あの人は信義に殉じて辞任したのかね?突然。

なんか私のこと言った?