二十三日目

 ゴーギャンの絵に「我々はどこから来てどこに行くのか」というような題名のものがあります。これとまったく同じことを鴨長明方丈記に書いています。洋の東西、時代を問わずに同じようなことを人は考えるようです。しかし方丈記は約800年前に書かれていますからゴーギャンよりはるか前にその問いをした訳で、早けりゃ良いってものではないとしてもその先駆性には驚かされます。千年も前に源氏物語枕草子を、それも女性が書き残している、ある意味ではとんでもない国ですから、そのくらいの深い精神性を供えている人がいてもおかしくないのかも知れません。

 振り返って現代の私たちには彼女彼等に匹敵する精神性があるのでしょうか。これは何も永田町界隈、霞が関や丸の内界隈だけでなく、この国にそういう精神性を見つけること自体が難しい時代となってしまったとも思えます。あまりに、そうあまりに何もかもが速く進んでいき、立ち止まって考えたり振り返ってみたりすることを忘れてしまったかのような生活に、ほとんど首まで浸かってしまったと言って良いかも知れません。息をするのが精いっぱいで余裕がないのです。いろいろな面で便利になり飢えることも少なくなって、物に囲まれた生活を送ることがひょっとして精神の空洞化を招いているとしたら、何とも皮肉なことです。

 方丈記とはよく比べられる徒然草には、「己をつづまやかにし 奢りを退けて 財を持たず 世を貪らんぞ いみじかるべき 昔より 賢き人の富めるは稀なり」などとありますから、現代人は総じて賢くはなっていないようなのです。1億5千万円もの税金を選挙違反者に渡しといて、そうしたお金の交付責任者が“俺は何も知らない”と言ってまかり通る世の中ですから、私たちが賢くはないことだけは明らかです。

二十二日目

 昨日は“21世紀中ごろには私は居ない”みたいなことを書いて無責任なことであったと、少しばかり反省を・・・てなことしませんが、「入管法改訂法案」が事実上の廃案扱いとなると言うニュースを聞いて、“え! なんで?”と与党の真意を疑りながらも、まずは目出度い、ごり押しだけが取り柄の前内閣とは違うんだと、だから反省もするんだと思う今日この頃でございます。まあ内閣支持率が急落しているから、下手にごり押しして墓穴を掘るなんてことは避けたいとの思惑もあったでしょうが、“入管”の体質には改善すべきものが多いようで、これを機にその辺りにもメスを入れて欲しいものです。私が直接かかわることはないようですが。

 まあ「ゆく河のながれはたえずして しかももとの水にはあらず」あるいは「世の中は なにが常なる飛鳥川 昨日の淵ぞ今日は瀬になる」などと申しますから、変化もあることが普通、常であるといまさらながらに思う今日この頃でもあるのです。だからオリンピックも早めに中止を決めた方が良いと思います。

そこで一句。

世の中を 憂しとやさしと思えども 善く負けるものは滅びず と昔の人は言うにけるかも(字余り)

 へい、お後がよろしいようで。

二十一日目

 もう梅雨にでもなったかと思うほどの空が広がっている。吹く風は湿度をたっぷりと含んで生暖かく、五月の気候とはかけ離れている。このまま記録的な速さで梅雨入りしてしまうのか。寝苦しい熱帯夜がまた来るのかと思うと何ともげんなりもする。クーラーを付けっぱにして温暖化に寄与する生活を送る、SDGsなど何するものぞと言った前向きな姿勢を堅持して暮らす日々が間近い。

 所詮ヒトの世は永遠ではなく、下手をすればあと1万年ももたないだろうから、ジタバタせずに欲望のまま生きる選択肢があってもおかしくないと思う。地球の総人口が100億を超えた時には、それだけでヒトは滅亡のシナリオを演じることになる。温暖化やパンデミックや核戦争だけが人類滅亡の危機となる訳ではない。どうやら滅亡のシナリオはいくつものパターンがあって、それらが重複したりクロスしたりの相乗効果で、1万年どころかヒトは三千年紀を迎えられないシナリオさえあると言う。20世紀生まれの私は「デストピア」のSF映画を幾度となく観てきたが、近頃ではそれらが現実味を帯びてきたと感じられることが多くなった。

 コロナ禍がそういったシナリオを見直すきっかけとなるかも知れない、なんて楽天的な思いもあるがなかなか難しいだろう。ただこの騒ぎのおかげでヒトが環境に及ぼす影響の大きさを、具体的な形で見ることになったのだから、少なくない人たちが何かをつかみ始めているかもしれない。こう言っては実も蓋もないが、私自身は21世紀が半ばになるころには地球上に存在しないだろうから、これらのシナリオの具体化された劇を見ることはかなわない。

二十日目

 このブログを再開した時に30日間、つまり30回は記事を仕上げようと思っていた。今日で20日分、あと予定では3分の1を残すこととなった。老化防止と頭の体操という目的は今のところは順調に達成されそうだ。まあ止めてしまえば元の木阿弥だから目標が達成されたとは言い難いが、どうにかこうにか20日分は仕上げられたので、まずは目出度いお正月、冥土の旅の一里塚と言ったところだ。

 思い起こせば7年ほど前になるか、この?というふざけたネーミングのブログに投稿を始めたのは。ほとんど毎日、土日は休んだがマメに更新を続けていた。5年ほどで区切りと考えて始めたのでその通りにした。最後の頃にはアクセスの回数が気になり始めていた。そんなこともあって切り上げたのだが、自分の頭の中にあることないことを文字にしてみるという作業は、なかなか面白いものでクセになる。更新を止めてからしばらくは手持無沙汰でもあった。日記という手もあったが、あれは何か陰湿になりやすく、漢字が思い浮かばないと辞書を引くという煩わしさもあって、グダグダとしているうちに頭の中は空っぽとなっていった。もともと大したものが入っていたわけではないのですぐ空になったとも言える。

 残り10日分が終わったらどうするのかまだ考えていない。

 

十九日目

 ”望外の出来”という言葉がある。予想していたよりはるかに良い結果が得られたことを言う。私にもそんな経験がある。調布の神代植物園はしっかりした温室があるから冬でも珍しい花を見ることが出来る。バラの季節、梅の季節、牡丹の季節と季節ごとの花も見事な植物園だ。ある年にその植物園で撮った花の写真がまさに”望外の出来”だった。背景のボケ具合と言い、花の表情と言い、ただ闇雲に撮っていただけだったのだが、きっとそれが良かったのかも知れない。山に重いカメラを持って出かけかなりの枚数の写真を撮っているが、打率は1割程度、とてもクリーンナップは打てない。あの年の花の写真に匹敵する出来のものはない。

 近所の公園には野鳥の写真を撮る人が多い。望遠レンズを付けたカメラに三脚をはかせて構えている人が何人も居る。なぜか皆老人で若い人は見ない。たまに女の人も居るがほとんど男の年寄りだ。あの人たちも“望外の出来”を狙っているのだろうか。それともすでにセミプロの域に達しているのか、撮った写真を見たことがないので分からない。ただ道具だけはその域に達しているようだ。

 私の場合、撮った写真はPCの中に入れてそのうち整理しようと、思うだけで整理もせずにそのままファイルしてある。たまに見ることはあるが、フィルム写真時代同様に撮ったら現像だけしてそのままという、あの当時とあまり変わっていない。デジタルになったので現像する必要がないからその分楽になったし費用もかからなくなったから、撮る枚数も飛躍的に増えたのだが、下手な鉄砲は数を撃ってもなかなか当たらない。

 大分前になるが、ある人の家に行ったとき、大きなガラスのショウケースの中に何台ものカメラが陳列してあった。あの人はどんな写真を撮っていたのか、結局聞かずに帰ってきてしまったが、あの人はきちんと写真の整理をしていたのだろうか。オーディオの凄い高価な装置を持っていて、そちらの方に気が行ってしまったから聞きそびれてしまった。ああいう人は“望外の出来”なんてことはないのかも知れない。カネのかけ方が違うからすべて当然の結果として理解するのだろう。

 

十八日目

 「枕草子」や「徒然草」はいつ開いても新鮮な驚きを与えてくれます。ヒトの意識や感受性は千年ぐらいでは変わらないのでしょう。

 てなことをシャラリと書いてうんちくをグダグダとのたまう、というのも悪くないと思いますが、素人のうんちくなど面白くもなんともなくただウザいだけですからしません。素人は素人なりの発想、処し方で行くのが一番と承知しております。

 そこで、十八日目となった今日はなにを書いたらよいのかという、十八を縦に並べると大のようにも見えるから、大風呂敷でも広げるかと考えた訳です。ところが「小人閑居して・・・」とか、「下手な考え休むに・・・」とか言われるように、素人が暇を持て余したり熟考したりするとロクなことにはならないようです。それでまあ身近なところをほじってみようかと、ゴミの分別について考えをいたしたのです。

 今はどこの自治体でもごみの収集は有料で分別も数種類になっています。基本は可燃と不燃、リサイクルなどになっているようですが、このリサイクルのうちのプラゴミと分類されるものに付きまとう疑問があるのです。あのプラゴミはどこまで再利用されているのかということです。プラゴミといってもペット、包装用、プラ用品・・・等々があって、一時期は外国、例えば中国とか東南アジアにかなり輸出?されていたとも聞いています。国内での再利用だけでなく外国で再利用資源として加工され、それをまた輸入するようなのです。しかしどうも単なるゴミとして放置されたり投棄されたりする部分もかなりの量になるようらしく、その辺りの疑問が私自身としては今も未解決であり、汚れたものや水洗いでも落ちないプラゴミは燃えるゴミとして出しています。素人考えで思うのですが、リサイクルの回すプラ(洗わなくても良い程度のもの)と燃やすプラを分けて、可燃物を焼却する熱を使い発電するシステムを各自治体で構築することとしたらどうでしょう。「コウジェネレーション」とかいうシステムです。あれをやればゴミも資源として有効に活用できるはずです。素人考えですが。四の五の言わずにやる気があればできるでしょう、素人考えですが。

十七日目

 鳴り物入りで取り組みが進むコロナ大規模接種会場、自衛隊が責任をもって運営するなどと言っていました。そんなこと出来るのかと疑問に思っていましたが、案の定、民間に30億だか40億円だか払って丸投げの“オペレーション”だそうです。国がワクチン接種の遅れを取り戻すべく自衛隊を投入・・・といったシナリオだったのでしょうが、丸の内に老人を集める発想といい、おまけに予約はネットのみとくれば、一日に1万人を接種する計画など絵に描いた餅としか言いようがありません。

 7月末までには高齢者のワクチン接種を完了してゆくと菅総理は繰り返し表明していますが、いまだに30数万人が接種を終えているに過ぎない現状を、優先接種対象であった医療従事者さえも完了していない現状を理解しているのかと言いたくなります。私の住む市では65歳から74歳までの接種予定は未定だそうで、7月末どころか今年中に終わるのかどうかも不明です。人口20万弱の自治体でもこうなのですから、さらに大きい自治体や地方の医師不足に悩む自治体では、首相の“掛け声”が「菜っ葉の肥やし」としか思えないことでしょう。

 そういった巷の現状を他所に、大阪維新の議員が、ベッド不足で発熱しても入院もままならない、自宅で死亡してしまうケースさえ起きているあの大阪で、陽性判明即入院という事実が報道されて批判が起きています。少し前には自民党の石原元幹事長が、陽性が判明して発熱もないのに入院するということが起きました。ワクチンの接種でも対象年令にもなっていない町長がこっそり接種するとか、大手薬販売チェーンの会長に優先接種の便宜を図るどこぞの副市長が出たりで、格差、差別、選別などが一部で行われ始めているのかと勘繰りたくなります。やはり上級国民にならないと命は守られない、のでしょうか。