悲観論

 私は無神論者だが神をネタにしたジョークは好きだ。その一つにこんなのがある。溺れそうになった人を助けようとボートを出すと、その人は「神が助けに来てくれる」と救助を断った。仕方なく救助ボートは引き返す。なおも溺れているので別のボートがやはり救助に向かう。しかしまた同じ理由で救助を拒む。やがてその人は溺れて死んだ。天国についた彼は神に会うとこう言った。「なぜ助けに来てくれなかった?」 すると神は「馬鹿目、2度も助け船を出したではないか」

 これは確か新聞に載っていたものだが、私たちが警告や啓示に何とも疎いことを皮肉っているジョークだ。自然災害の多発が化石燃料の大量消費や経済活動によるところが多いのに、人類はそれを一向に認めない、あるいは無視する傾向があり、そのように声高に主張する指導者をむしろ支持してしまうことが少なくない。このジョークは現実世界を揶揄しているとも言える。頻繁に発生する海水温の上昇やそれに伴う台風やハリケーンの大型化、極地の氷床の崩壊、高地氷河の後退など、地球の温暖化がもたらす様々な変化をあまりに過小評価して現実を直視しない、目先の利益を優先する。私たちは警告に鈍感になってはいないだろうか。

 “転ばぬ先の杖“、”災いは忘れたころにやって来る“などなど、事前の策を用いることの教訓や諺は山のようにあるが一向に身につかないのが現実だ。”なるようになる、後は野となれ山となれ“という”諦観“も分からないこともない。なぜなら、いくら準備しても策を立てても”ふんどしと当ては向こうから外れる“の例えのようなことがまま有り、人智の及ぶ範囲などたかが知れていることもよく分かる。漱石風に言えば「坂道を下りながら考えた。知を働かせても無駄になる。情を抑えれば腹が立つ。とかくこの世は糞の世だ。尿瓶だ、オマルだ、肥溜めだ」という風になるのだろう。まあそう考えたら実も蓋もないとも言えるが、現実は近い。

 地球上では人類だけが過去と未来についての反省と予測を、的確ではないにしても行っている。その能力を獲得したメリットをなぜ生かせないのだろう。20世紀の中ごろに生まれた私は、21世紀には期待をもっていたはずだったが、このところの気候変動や社会の動きを思うと、とても楽観的な気分に離れない。あまりに悲観材料ばかりが目立つ。