光陰矢の如し

 速い、実に速いと思わざるを得ないほど、気が付けば11月。2016年も残すところあと2月、まったくこの速さは何だろうと考えてみるのだけれど、ほとんど食って寝るだけの生活をしていることにその原因がありそうな、あるいは“何かを待つ”ということがないからか、どちらにしても“考えよう”によっては大変結構なことではあるので、ことさらこれが変わって欲しいとは思わない。
 11月3日は文化の日という、なんか訳の分からない日だけれども、その昔文化鍋やら文化住宅などというものがあったらしい。そう言えば私が子供のころに近所に文化村という地区があり、ただ安普請の家が並んでいるだけのところで、これがなぜ文化村なのか一向に分からなかった記憶がある。文化と言えば何か“ハイソ”で高尚なイメージがあって、建売住宅の販売戦略であったのかもしれない。
 憲法第25条は、「生存権」という権利が私たちにあり、国はそれを実現する社会的使命を帯びると高らかに宣言した条項で、ここにも文化が出てくる。「すべての国民は 健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」というものだ。ここで言う「文化的」とは具体的にどのような状態をいうのか、様々な意見が出されてはいるが非常に抽象的な概念でしかないように思える。こんなところが現行憲法を変えたいという人たちからは度々いちゃもんがつけられる。けれども「不健康で貧乏で不衛生な生活」でないことはハッキリしているのだから、多少抽象的でもストンと納得できる。文化あるいは文化的という状態は、気持ちの良い穏やかなものであると思えるのだ。
 そこで最初に戻ってみるのだが、考えようによっては今の私の生活はかなり“文化的”と言えなくもないと思うのだ。気持ちは良くも悪くもないが穏やかであることは間違いなく、なんせ何も待つこともやることもないのだから、だから時間は足早に過ぎてゆくわけで、ボーとした毎日を送ることに誇りさえ覚えてしまう。光陰矢の如し、何ぼのもんじゃい。

私なんかその道の達人