便利

ヒトは不便にどれくらい耐えられるのか、などと考えてみたことがあります。もとより不便であることが良いなどとは思いませんが、あまり便利すぎるのもどうなんだろうと、この頃ふと考えるのです。
例えば、日本のトイレ事情は世界中で一番快適便利かつ複雑なものと思われます。ドアを開けると便座のふたが自動的に上がり、イルミネーションがついて便槽内にシャワーを噴霧、いざ用を足せばこれも自動で脱臭、あとはボタン一つでウォシュレット、乾燥と続き、腰を上げれば言うまでもなく自動で水を流してくれるのです。手を使うのはウォシュレットと乾燥の時のみで手を洗う必要もないのです。コンピューターの上に腰を下ろして用を足しているという状況なのですから、もうこれ以上の改良する余地はないほどの完成度と言えます。したがって反動も大きく、それらの設備のないトイレに入ると大きな苦痛を感じることとなります。外国に行った友人の話でも、先進国と言われる国もトイレが難点で困ったと聞いたことがあります。私の子どもの頃はいわゆる「ぼっとん便所」が普通でした。もちろん水洗式もありましたが、それはデパートや公的建物、ビルなどで、かなり都市部のそれも裕福な家でもなければトイレは「ぼっとん」と相場は決まっていたのでした。
おりからパリでは「COP21」が開かれ、温暖化の対策についての議論が行われています。温暖化対策と便利さの追及は密接に絡み合っており、現在の先進国並みの生活を世界中で享受しようとすれば、間違いなく地球の温暖化は急速に進むであろうし、エネルギーも食料も不足することは間違いありません。穿った見方をすれば、南北格差や経済格差のおかげで私たちは危機的状況に陥らずにすんでいるとも言える訳で、その辺りが綺麗ごとではすまないこの問題の難しさを表していると思えるのです。飢餓で苦しむアフリカの人たちがすべて豊かになり、現在のままの出生率で人々の生存率が高くなった時に、果たして人類全体の幸福と便利さを追求できる余裕が、この地球上に残されているのかどうかを考えることが“非人道的”とばかりは言えない、そんな気もするのです。
蛇足ですが、「便利」という単語は「便通」の意味もあり、「徒然草」の第百八段ではそのように使われています。ですから「不便」というのは便通が無いことでもあり、これはなかなか辛いものであると思うのです。

便利・・・ねえ・・・