“もっと光を・・・”と言いながら死んだのは誰であったのか忘れましたが、ヒトは闇あるいは暗いところに恐れや不安を感じる生活を、長い間してきたし、今でもしているといって良いでしょう。光が届かないところでは物の形が分かりません。私は長いトンネルの中で真っ暗闇というのを経験したことがありますが、目の前が見えない、何があるのか分からないのです。光が無ければヒトはもう何も出来ないとその時は思いました。しかし考えてみれば、深海や洞窟の中でも生物は生きていますから、その気になればどうにかなるのかも知れません。けれどもやはり暗闇は不便であり、出来れば太陽さんの降り注ぐ中での生活があらまほしいと思います。
光の源(太陽系では)は太陽ですが、確か地球からの距離が1億5千万キロメートル、光速でも約8分かかるという遠いところにある星からくる光と熱で、私達地球の生き物は命をつないでいます。電気代がかかる訳でなし、ガス代を払う訳でなし、まったくのロハ、ただでその恩恵に与っているのですから、どれだけ感謝しても足りないと申せましょう。その昔ヒトは太陽を神として崇め、朝晩に手を合わせていたというのも当然と言えば当然のことだったのです。
太陽が「核融合炉」であることはすでに周知のことですが、あろうことかその真似をして「原子炉」なるまがい物をつくり光と熱を作り出そうとした私たちヒトは、「原子炉」を制御、コントロール出来るものとして幾つかの過ちを見過ごしてきました。その最たるものが、「原子炉」から排出される高濃度放射性廃棄物というものの処理方法です。原子力発電は「排水管のないマンション」などと揶揄される基本的欠陥を抱えたシステムだったのです。しかし私たちヒトは、そういった欠陥に目を向けずに光と熱を追い求めてきました。
3年前の福島原発で起きたことは、この「原子炉」というシステムが未完成であることの証明であったと思います。おそらく今年あるいは来年早々に、原発再稼働という事態が進行し、数年後には紆余曲折を経ながらも各地で原発が稼働することでしょう。ある意味では、“もっと光を、もっと熱を・・・”といった声は、ヒトの根源的な欲望の声なのかも知れません。しかし、「原子炉」がそれらの声に応えるものであるとは決して思えないのです。

それは私