恐怖の存在

マイクル・クライトンという作家が「恐怖の存在」(原題STATE OF FEAR)という本の中で、「社会統制のためにいちばん効果的なのは、恐怖を通じてコントロールすること」と書いています。この「恐怖の存在」という本は環境問題を扱ったサスペンスですが、「恐怖」を、とくに現代人が感じる「恐怖」についての指摘は的を射ていると思います。
たしかに私たちはいろんな「恐怖」に取り囲まれていると言えます。病気、自然災害、失業、環境破壊、犯罪、戦争、カビ、ばい菌、ゴキブリ・・・、もう数え上げたらきりがないほどの「恐怖」が身の回りに溢れています。過度の情報がそれらを一層複雑に深刻にしているとも言えます。一つ一つの「恐怖」の実態についての知識も検証も無いまま、メディアや場合によっては巷の噂にさえ翻弄されることがあります。ヒトは脳が発達したおかげで実体験を伴わない事柄でも「恐怖」や「心配」といった感情を持つことが出来る唯一の動物です。そういった特性が「恐怖」を数多くつくり増幅してしまうのでしょう。一般的言って「恐怖」は自己防衛反応の一形態と言われ、これといった武器を持たないヒトが身を守るために発達させた感情であると思われます。だから、「恐怖」そのものはヒトの自然の反応なのでしょうが、どうも現代人は過剰に反応し過ぎるようなのです。その理由はいろいろ有るのでしょうが、それはこの際横に置いて、この「社会統制・・・」のための「恐怖」の活用はかなり身近に、頻繁に活用されていると思えるのです。
集団的自衛権」を論議するときにも、“他国からの脅威”や“侵略”、果てはミサイルまでが取りざたされ、「だから集団的自衛権を行使できる環境整備・・・」が必要なのだと、まず「恐怖」を煽ることで目的に近づくという手法が採られました。マイクル・クライトンは本の中で、「環境危機が冷戦の代わりに持ち出された・・」とまで登場人物に言わせていますが、社会統制、別な言い方をするなら権力の支配を維持するなら「恐怖」は恰好のアイテムと言う訳でしょうか。
私も含めて臆病で怖がりなヒトは多いから、「恐怖」政治なんてものは今でも有効な政治手法なのだと、改めて思ったりしました。

うー頭が・・・