国または国家

・・・司馬遼太郎風に・・・
国または国家について考えている。私どもが暮らしているところはすべて国もしくは国家と言われているものの中にある。しかし、日常ではそれらを意識せずに暮らしている。国家権力などと言う厳めしい言葉も、徴兵や思想弾圧でも受けない限りその存在すら考えない。まことに私どもは太平楽と言える。
市役所あるいは区役所が国家かと言うと、どうもそんな印象はない。中央官庁、警察などが出てくると国家が浮かび上がる。オリンピックやサッカーの試合など国別対抗では国名が頻繁に使われる。日の丸や日本(ニッポン)という国名が飛び交うことも多い。私はオリンピックもサッカーもあまり見ないので、観客の間でどの程度に国が意識されているのか、その辺りについては甚だ心もとないのだが、国家を意識して応援する人も少ないのではなかろうか。
アメリカという国は国歌や国旗について厳格である。公立学校では国家への忠誠を生徒に宣誓させる。様々な催し物では必ず国歌を歌う。アメリカンフットボールの大会は人気歌手の国歌斉唱?から始まる。移民国家アメリカはそうやって国の統一を保ってきたのだ。たかだか200年あまりの歴史しかない合衆国は、文化による裏付けを持たない国だから、唯一国家という共通のアイデンティティと文明という普遍性にしがみ付くしかなかった。
翻って我が国では明治になってから、国家が千年以上の文化を投げ捨てて欧米文明にすり寄った。その結果として国家の定義が曖昧となり、あわてた軍部が天皇史観を急ごしらえに仕立て直して昭和に突入した。そうして敗戦である。占領によって大量に流れ込んだアメリカ文明は、我が国の古来の文化をさらに曖昧にした。しかし、普遍的な文明を受け入れる以上、排他的な文化を曖昧にすることは必然なのだ。文化は文明によって薄められるが無くなりはしない。そのことを現在の為政者は理解していない。文化が国家によってつくられたものではなく、人民、民衆によって築き上げられたものであることが分かっていないのだ。
…とまあ司馬風に書いてみましたが、国家の本質に迫るほどの知識も見識も無い私には手に余るテーマで、国家の何たるかについては別の機会にします。でも書き出しあたり、ちょっと似てません司馬遼太郎に・・・、中身のないことは別にして。

あーあだわね