モーツアルト

最初に聴いたモーツアルトは“トルコ行進曲”と呼ばれるピアノソナタだったと思います。小学校の音楽の授業ではなかったかと記憶しています。もちろんその頃はモーツアルトも何も知らず、ただ“調子のよいピアノの曲”程度のレベルで聴いていたと思います。正直に言いますと、映画「アマデウス」を観るまではアマデウスモーツアルトのセカンドネームであることさえ知らずにいました。
モーツアルトについては吉田秀和はじめ小林秀雄など何人もの評論家や作家が書いていますから、今ではその人物像もある程度は明らかにされていますが、やはり謎の多い人だったようです。私などは残された音楽の一部を聴くだけのファンですから、「アマデウス」以上の知識はないのですが、“小男はいつまでもオーケストラのそばの土間を行ったり来たりして・・・(中略)、第二バイオリンがDの音をDisにとっているのに、指揮者が気がつかずやりすごしたとき、小男はたまりかねて「Dだ、ばか野郎!」とどなった(吉田秀和モーツアルト その生涯、その音楽)”などと書いてあるのを読むと、“ああ、やはり”と彼の残した音楽とのギャップを思い、感性と品性の乖離は偉大な芸術家にはまま有ることなのかと納得したりします。
モーツアルトの作品の中ではピアノコンチェルトをよく聴きます。13番や14番、20番などが気に入っていますが、中でも13番の第2楽章は、なんといって表現すればよいのか、とにかく“心が洗われる”とでも言いたくなるような旋律です。もちろん最終章のオーケストラとピアノの掛け合いも素晴らしく、体がフワフワと浮かびだすような軽やかさに満たされます。いつも聴いていて思うことですが、なぜあのような旋律が次から次へと頭に浮かんだのか、ヒトの能力の幅広さを思わずにはいられません。
早世した芸術家は天才と呼ばれる人が多いのですが、モーツアルトはまさに天才と呼ばれるにふさわしい逸材であったのでしょう。考えてみればあの当時の音楽家は短命です。音楽を創る作業はかなりハードな仕事であったのかも知れません。
 

 私も天才