音楽について

 いわゆる“クラシック”についてである。バッハ、ブラームス、ベートーベンは言うに及ばず、ストラビンスキーやマーラー、ラベル、ガーシュインなど、およそクラシック音楽と言われる全てについてである。ただ一言、よく分からないのだ。いつもの友人が回してくれた本を読んでいると分からなくなるのだった。その本の題名は「言葉のフーガ 自由に、精緻に」・吉田 秀和著なのである。
 作者は著名な音楽評論家だから音楽、ことクラシック音楽についての造詣は深く、また感性も鋭いであろうから、耳にする旋律の細部にわたって、作曲者や指揮者の、あるいは演奏家の発信するメッセージを、的確に受け取ることが出来る能力をお持ちなのである。いや、言い方を間違えた、そういった能力をお持ちだから抜群の音楽評論が書けるということだろう。それに引き比べるのもおこがましいが、私はベートーベンとモーツァルトの区別がやっとつく程度でしかないので、作者のように音楽を楽しむことを望むべくもないのだが、そのあまりの落差に愕然とさせられる。なにがこれほど違うのか、しばらく考えてみた。
 帝大卒でないし、医者の子供でもないし、日本橋生まれでもなし、もちろん裕福でもない。要は生まれも育ちも全て違い、したがってあのような感性に恵まれる条件がこの私にはことごとくなかった、ということが最大の原因であると結論付けるに至ったのである。“三つ子の魂百まで”とはよく言ったものである。近頃はグルメを気取るお馬鹿な人達も多いが、舌の感覚は5歳ぐらいまでに出来あがってしまい、あとは幾ら旨いものを食べても対して味覚を発達させることはないと聞いたことがある。あれと同じで、耳も同様に幼少時の環境が左右するらしい。5歳までにロクなものを食べなかったグルメお馬鹿は、値段で味を決める方向にシフトする。ブランド志向お馬鹿と同じだ。幼少時にフルトベングラーカラヤンを聴いてない耳に、いくらベルリンフィルウィーンフィルを聴かせて、その違いを言ってみろという方が無理なのだ。私の場合は、よい音、気持ちの良い音楽のレベルで満足するしかない。
 しかし、仮に私が帝大を出て、医者の息子で、日本橋で産湯をつかり、お金に不自由しない生活を送ったからとて、ベートーベンの第九、第一楽章を「まず開始の仕方 あの3度を除いたドミナントのeとaのトレモノを背景に、まるで暗い、夜の空を天から何か不思議なものが音もなく、降ってくるような・・・」と感じられないことは明白なことであったろう。

  
  この下から出てくるモーツアルトの音色はいいのよ、お尻に・・・。