なぜ電柱が無くならないのか

もう度々でうんざりしているとは思いますが、またまた電柱の話です。
いまや電柱は日本の原風景とも言うべき存在となっていますが、なおこれほどまでにこの国は電柱に拘るのか、この点ついて推敲してみました。
結論から言いますと、これは街の構造にあるように思います。ご案内のように私たちの街は、西欧的な都市計画の発想から見れば著しくかけ離れています。よく言われるように、ローマは都市づくりの基本をヨーロッパ全体に広めました。王宮やそれに続く広場を中心としたヨーロッパの都市構造は、直線的な道路を基本として形作られ、機能的に行政、司法、立法、文化、芸術などのゾーンを配置しています。グーグル・アースでその辺りを見ると日本の都市との違いは歴然で、狭く曲がりくねっている、直線距離の短い日本の道路は、「計画」という発想を欠いた都市の象徴のようにも見えます。このような無計画な都市構造では、ヨーロッパと同様な共同溝といったインフラを設置することが現実的には困難と考えられるのです。なぜなら、ゾーン分けもされてなく道路も無計画につくられていては、都市機能の動脈とも言うべき共同溝を効率的に設置することが不可能なのです。
それから国民性というべきなのか、アジアモンスーン地帯の特徴なのか、雑然とした混沌が一向に気にならない気質がこの国にはあるようです。前段の都市構造もそうですが、狭い国で暮らしているから、遠くを見て物事を考える習慣が身についていないのでしょう。身の周りのことが片付けばそれで良しとする、当座間に合えば後は次に考える、といった思考法は私も得意とするところであり、50年、100年先を見越しての展望などはどうも苦手なのです。電気は欲しい、けれど共同溝は金も時間もかかる、じゃあ簡単な電柱でやろう、というロジックはまさにこの国向けの方程式とも言うべきものなのでしょう。
工夫や改良が得意とするこの国の伝統と、根本的な問題についての議論を後回しする国民性が、蜘蛛巣状の電柱を街中に林立させ、地震が多発する大地の上に危険の種を育てています。リスクを承知でやっているとしたらいい度胸というか、アジア的楽天主義なのか、それとも智慧のまわらない魯鈍なのか、とにかくあまり良い結果は生みそうにありません。
 

計画性にもとづいた座り方