進化論

進化論と言えばダーウィンで、ダーウィニズムやネオダーウィニズムといった潮流がつくられて今日に至っています。ダーウィンが「種の起源」を発表したのが1859年ですから、まだ150年ほどしか経っていない訳で、ヒトは自分の生い立ちについて、つい最近になってからやっとその片鱗を知ることになったと言えます。よく知られているように、アメリカの一部の州では未だに「進化論」は御法度の学問であり、世界的にみてもキリスト教ではカソリック教会が1996年にやっと認知したところですし、イスラム教に至っては未だに原理主義と相いれない思想として排除されています。仏教の世界では輪廻思想が根底にありますから、進化というよりは虫になったり熊になったり、場合によってはヒトにもなったりする生まれ変わりが基本で、前世の行いによって決まったりもしますが、キリスト教のように“サルからヒトになるなんて信じられない”といった誤解は生まれにくかったかも知れません。おかげで「進化論」はすんなり受けいれられ、私達も小学校の頃よりダーウィンの名前を馴染みとしてきました。
進化の過程の中で生まれたヒトが進化の終着駅ではないことを、私達はつい忘れてしまいそうになります。43億年だか何かの最後のほうに出てきたヒトは、たまたま脳という機能が他の生物と較べ異常に発達してしまい、この地球上での生活をするうえでややバランスを欠いた進化を遂げた生き物となってしまったように思えます。まず体を守る体毛が無くなり、筋肉や骨格も同等な生物と較べれば貧弱となっています。また繁殖と関係なく性行動をする生物は外にあまり例がなく、チンパンジーなどにも同様な行為が見られるようですが、ヒトのそれとは較べものにならない程度のものです。また、同族殺しも頻繁に起こる行為で、「戦争」はその最たるものです。食事という習慣も、本来の生存を維持するという行為からは遠く離れてしまっています。まだ外にも他の動物との相違点が数多くあり、考えれば考えるほど、今までに地球上に現れた生物としては異端者であるように思えます。しかし、何よりも他の生物と異なる点は、自分の都合で周りの環境を強引に変える、破壊してしまう行為で、“道具”という強力な助っ人を振りまわすことでそれを進めてきました。他の種を絶滅に追い込んだりもしています。天敵の居ない世界もヒトに有利となりました。「進化論」がヒトの未来をどのように描いているのか知らないのですが、進化という言葉のニュアンスからすれば、現在のヒトは未完成としか思えない状況であろうと考えてしまいます。
私達の直接の祖先と言われるホモ・サピエンスが地球上に現れてから約20万年ですが、ヒトの考えられるタイムスケールはせいぜい100年ほどです。これから1000年先、10000年先の未来などは想像も出来ません。いまヒトに分かっていることは、数10億年先には太陽の活動の変化で地球は生物の住めない天体となること、さらに太陽が終末を迎える頃には地球が無くなってしまうことなどです。100年ほどのタイムスケールしか持たないヒトは、そんな未来があったとしても現実的には何の意味もありません。自分の生きている時間さえよければそれで結構、といった論理もあながち的外れとは言えないでしょう。だからという訳でもないのですが、自分に正直に、自分に与えられた時間を有効に使う、自分中心に生きるとするのも決して悪いことではないと思えるのです。“自分さえよければ”といったことと同一視されそうですが、自分を尊重することが他人への思いを支えるとも言えます。“他人のために“とか”一人は万人のために、万人は一人のために“などというお為ごかしは、この際決別したほうが賢明ということでしょうか。
骨格標本など見ると、高等哺乳類と言われるイヌ、ネコや類人猿のサル、ヒトは驚くほど似かよっています。頭蓋骨、背骨、手足など、化石となった骨を未来の知的生命体が見れば、同種の生物として区分してもおかしくないと言われています。地球上の生命体がこれからどのように進化してゆくのか、私達ヒトにその未来を予見する能力はありそうもないようだし、私達の子孫がその未来と直接かかわりを持つこともなさそうですが、最大多数派の微生物や細菌類がいる限り、この地球上の生命は滅びることはないでしょう。おそらくこれからの地球という天体の何十億年かの歴史の中で、ヒトの痕跡が残るとしてもほんの僅かでしかない可能性が強いと思われますから、私達ヒトは分相応に慎ましく暮らす術を見つけていくべきでしょう。「進化論」はそういったことを私達の語っている・・・?のではないでしょうかねえ。読んでないから何とも言えないけど。
 
 なによ 今日はだらだらと書きなぐって・・・。