ヒトの宿命 その2

昔から“駕籠に乗る人 担ぐ人 そのまた草鞋を作る人”と申しますように、やれ“ヒエラルキー”だとか“テーゼ”などと気取らなくても、私たちの社会は有史以来ずっとこの階層別社会に馴染んできました(自分で使っといて何ですが)。むしろそうでない世界を経験したことが無いと言ったほうが正確でしょう。ところが人権宣言にしても民主主義にしても、“人は生まれながらにして平等である”と言った大風呂敷を広げてしまっています。この大風呂敷は大多数の下部構造を形成するものとっては願ってもない甘いささやきでした。この“人はみな平等”という甘言は、つい能力やら持って生まれたものまで同じであるかのような錯覚をしてしまう、そんな幻想を私たちに抱かせてしまったようなのです。しかしヒトは顔も能力も千差万別であり、当然生まれる場所や条件も一つとして同じものはありません。これはヒトに限ったことではなく、この地球上の生命のそのほとんどに当てはまると言えます。細菌や微生物がその範疇に入るかどうか微妙ですが、少なくともヒトの目で確認できる世界ではそのように言えるはずです。そしてこのことは「生物多様性」とは別の括りであり、同一種の中での話なのです。生物の多様性がそれぞれのニッチを基礎に発展してきたことは通説ですが、その棲み分けさえも生態系と言う観点で捉えるならヒエラルキーを構成していると言えるのではないでしょうか。食物連鎖や森林の植物繁茂など見るとそのように思えるのです。
“ちょっと待ってよ、それじゃ最初の話と違うじゃない、冒頭ではヒトはヒエラルキーを形作る特殊な動物ということだったはずでしょ”との感想をお持ちの方、まさにその通りです。途中から話の軸がずれていたのですね、困ったことです。しかしそんなことに煩わされてはいけません。物事は移ろい変わるのです。終わりよければすべてよし、これなのです。
そこでそろそろ話をまとめたいところなのですが、このままでは“人類みな平等”といった方向とは大分異なった所に着きそうなのです。以前に書いたことですが、ヒトはヒト以外の動物と多くの点で異なった生物となっています。もしヒエラルキーが生物共通のもの(このあたりはもう始めと全く違っていますが)とするなら、ヒトもその例外ではないという結論もありうるのですが、この点でもヒトは多くの生物とは共通項を持たない動物である可能性を否定できません。ヒトが生まれてまだ数十万年しか経っていないという進化の時間的制約を考えれば、“大風呂敷の甘言”に微かな望みを託してもいいような気もします。ヒエラルキーがヒトの社会の特徴ではなく、ヒトが始めてヒエラルキーから抜け出した生物であったという結末を見てみたいものなのです。場合によってはそのことがヒトの滅亡を早めることになるとしても・・・。
 
 
 ヒトは滅びる宿命なのね ウフ・・。