死刑と殉教

 オーム真理教が起した一連の事件に関わった団体幹部達の死刑判決が確定したようです。松本 智津夫という教祖がどのようにこれらの事件に関与したのか、結局本人からは一切明らかにされないままの結審となりました。彼の中で一連の事件が宗教上の行為として位置付けられているとすれば、裁判の中で何も語らないのも宗教上行為の延長線であろうと思います。となれば裁判の中で事件の真相を解明すると意気込んだところで、すれ違いになることは十分に予想されていました。松本以外の幹部達も、大なり小なりその論理の中で行動するでしょうから、事件の本質に迫る審理は難しく、結局は“闇の中“といった幕切れとなった訳です。
 私はこの事件についての利害関係者ではないので、“本質”云々についてはさほど興味はありません。宗教がからむと部外者には分からないことが多いからです。しかし死刑判決を受けた者が13名も出たことには驚きを感じます。死刑が確定した被告達の顔写真が掲載された新聞を見ると、同じような年代の顔が目立ちます。このことが特別な印象を抱かせるのかも知れません。高学歴ぞろいといったことも当時話題となりました。もともと宗教は排他的な教義で集団内の結束を高める性格を持っています。そういった集団が独自の考えの下で行った行為を、全く異なる尺度による“裁判”というシステムで判断することに、私はやや違和感を持って観ていました。またそもそもオーム真理教という団体が、宗教団体と言えるのかといった疑問もありましたが、本人達が宗教徒として活動しているし、自治体も宗教法人として認可しているのですから法律的には宗教団体だったのでしょう。その団体が起した行為が、宗教上の行為であろうと何であろうと殺人は殺人ですから、日本国の国内で行われた犯罪行為については、国内法による判断が妥当であることは間違いありません。ですから刑事事件として立件され、結果として死刑が言い渡されることに疑問は無いのです。
 ただ最初にも言いましたように、仮に宗教上の行為として為された事件であるとするなら、その団体の教義の全容を明らかにする必要がある訳ですし、そうでなく単なるテロ集団として行った行為であるなら、なぜ行政はそんな集団に宗教法人という隠れ蓑を与えたのかという疑問も出てくる訳です。裁判の中でそのような視点は追求されたのでしょうか。短期間に13人もの死刑判決を出す裁判ではそれは無理であったような気がします。その上で刑の執行がされるとするなら、被告達は殉教者として位置付けられてしまい、ますますこの事件の全容が曖昧にされてしまう恐れがあると思うのです。死刑という刑罰によって彼らの目的を手助けすることにもなり兼ねないと危惧するのです。13名の死刑囚が次々と刑を執行されて行く様を考える時、なにやら中世や江戸時代の宗教裁判やキリスト教弾圧を連想させてしまいます。また死刑という刑罰が持つ非文明的な印象を、今回のような大量の死刑判決は一層際立たせているようにも思われます。
 裁判が終結した今となっては、法廷によって事件の全容や本質が解明されることはなくなりました。今後どのような展開となるのか私には分かりませんが、被告達の死刑執行を望む声は被害者を中心にして高まると予想されます。小説家 高村 薫は「太陽を曳く馬」の中で元オーム信者を登場させて、既存宗教との関わりやオームの教義について言及しています。すでにオーム真理教については数多くのルポや書き物が出されていますが、死刑執行という事態を迎えた時には再び書店にオーム関連本が並ぶのでしょう。彼らを殉教者にしてしまう本も出版されるような気もします。まずいようにも思えるのですが・・・。

無題