日本国憲法の目指すもの

 私は私たちの国の憲法である「日本国憲法」をノーベル平和賞に値するものと思っている。なかでも第9条の存在は、世界中の憲法の中でも先進的であると同時に究極の平和主義を高らかに宣言したものとして、まさにノーベル平和賞にふさわしい条項と考えている。そしてこの第9条のみならずに、第11条(基本的人権の享有)、第19条(思想及び良心の自由)、第23条(学問の自由)、第25条(生存権、国の社会的使命)、第26条(教育を受ける権利、教育の義務)などを列挙して、人類共通の基本的権利をあらゆる権力から守り、国にそのことを義務づけている。憲法とは最高法規であるとともに、国が国民に対して負っている義務を列挙した法規でもあるのだ。
 とまあ、こんなことを常々考えているのですが、私がいくら考えたところで憲法の精神が実現されることはおろか、その見通しさえ立つ気配はありません。むしろ憲法は蔑ろにされ、“改憲”もしくは“廃憲”さえされそうなご時世となっています。「アメリカから押し付けられた・・」と、改憲派や自主憲法制定派の人達は口を開けば言うようですが、それがアメリカ頼みでここまでやってきたし、これからもやっていくつもり人達の言い草なのが笑えると言えば笑えます。

 トマ・ピケティが「21世紀の資本」のなかで、「すべての人間社会において、保健医療と教育には本質的な価値がある」、また「文明の基本目的のひとつ・・・」とも言っており、私もまったく同感と考えています。すべての人が能力に応じた教育を受ける権利と保証がなされ、適切で有効な医療体制を享受できる社会環境に暮らすことは、まさに文明の証であり目的でもあります。加えて、年金、失業保険、生活保護などの社会保障制度は、人の生存権を担保するための必須条件であり、これらを充実させることが人類の究極目的と言って差し支えないと考えている訳です。そしてこの制度をトマ・ピケティは「代替所得と移転支払い」という定義づけを行い、今日の先進国が到達した「社会革命」とさえ言っているのです。
 言うまでもなく、私たちの国の憲法はその第25条で「生存権」を、第26条で「教育を受ける権利」を明記しています。まさにその内容と目的とするところはトマ・ピケティの論点と同じと言えるのです。私たちはすでに半世紀以上前から人間社会の進むべき一つの方向についての結論を持っていた、にも拘らずに、その結論を棚ざらしにして顧みることをしてこなかった、憲法という最高法規の役割に気づいてさえなかったと思えるのです。いや、今も気づいていないと言うべきかも知れません。
 
 しかしこのような繰り言を幾度繰り返したでしょう。繰り言だから繰り返すのですがねえ・・・。

おひさしぶり