基本的人権

 日本国憲法では国民の権利として「基本的人権」を認めています。憲法第三章では第11条から第40条までこの「基本的人権」の中身を示しています。よく引き合いに出される「思想・信条の自由」は第19条、「信教の自由」は次の第20条、そして「学問の自由」は第23条にうたわれています。しかし現実生活の中でこの基本的人権がしっかり守られているかというと、決して胸を張れる状況でもないというのが本当のところではないかと思います。言うまでもなく、これらの権利は第12条で言われているように「国民の不断の努力によって」守られるものであり、実行されるものであるのですから、“胸を張れる状況でない”ことの責めはあながち国ばかりに押し付けるわけにはいかないのですが、国が憲法の精神を蔑ろにするようなことは許されないのです。
 中華人民共和国がどのような憲法を持っているのか私は知りません。ですから今回の劉暁波氏死去に伴う中国政府の一連の動きは、まず中国の憲法に抵触していないのかという問題を吟味すべきであると思います。なぜなら、「基本的人権」の定義は必ずしも万国共通ではないのです。人権に対するいわゆる“温度差”が歴然としてあって、政治体制の違いや歴史的な経緯によっても「基本的人権」の扱いが違うようなのです。「国連憲章」などにうたわれている「基本的人権」の普遍性も、言ってみれば努力目標、願望とも考えられ、あの“自由の国”アメリカでさえ基本的人権が平気で踏みにじられる事態がたびたび起きています。と言ったことなどを踏まえて今回の劉氏の遺骨の扱いを思うとき、中国政府の一連の行為は“権力者の過剰な防衛本能の現れ”であり、一党独裁国家の驕りと不安を露呈したものと思えます。もとより中国共産党という組織が民主的でも人民に寄り添う組織でもないことはすでに自明となっていますが、中華人民共和国建国の理想と遥かに離れてしまった今の中国の実態を、改めて顕著にした出来事と思っています。
 私たちの国も1945年を境にして生まれ変わったはずでした。しかし此処にきてなにやら「先祖還り」を声高に叫ぶ人もいて、またそれに同調あるいは無関心な人たちも少なからず居て、中国で起きている事態は対岸のことではない気がします。やはりその実現には「不断の努力」が必要な権利、それが基本的人権なのでしょう。

私にも基本的にゃん権利は存在します。