雑感

 言うまでもなく、雑感とはよしなしごとであるので意味や問題提議などとは縁遠く、ましてや為になる能書きをしたためるつもりはないから、読み飛ばしてもらうつもりで書いています。

 私は既に後期高齢者となり、したがって夜の眠りは浅く、また隣で眠っているにゃんこに定期的に起こされることもあって、夜中に目が冴えた時にはどうでもよいことなどを考えます。昨夜も例によって夜半過ぎに目が冴えたので、ふと地球の自転速度などに思いを巡らせたのです。改めて考えるに、地球の一周は赤道付近で約4万キロとされていますが、この距離を一日で回るとすると時速1600キロを超えるスピードが必要です。とんでもない速さで私たちは動いているのです。さらに、地球は太陽の周りをこれまたものすごいスピード(秒速約30キロメートル)で公転しています。かつさらに、太陽系は天の川銀河の中心から約3万光年あたりをもうトンでもトンデモない速さで動き、かつまたさらに天の川銀河はむちゃくちゃなスピードで動いているという、もう何が何だか解らない世界で私たちは何事もないように暮らしているのです。これは偏にヒトと言う生物が宇宙と言うスケールからみるととてつもなく小さく、おそらくヒトと原子との比率よりさらに大きく、宇宙から見ればヒトなどと言う生物は無に等しい、限りなく無であるとの状況によるところにその原因を求められる、かように考えている訳なのです。もちろんヒトから見れば宇宙などと言うものはデカすぎて、スケールが比較しようもない、つまり無限大の捉えどころのない、在って無いと同じものと言って差し支えない対象なので、これまた全く無視していてもこれと言った不都合は感じないとも言えるのです。”万有の真相はただ一言にして尽くす 曰く不可解“と言ったところでしょうか。先人は鋭い洞察をしていました。

 さてさて、夜中にそんなことを考えながらあることに気が付きました。地球の自転の話に戻りますが、赤道付近の自転速度が時速1600キロ超だとすると、日本のある北緯37度あたりでは自転速度がそれより遅くなるはずです(半分眠った頭であれこれ計算したのですが、37度分ぐらい遅いとしか分かりませんでした)。北極点或いは南極点に近づくにつれてその速度は遅くなり、点上では自転速度がゼロになる、つまり自転しない点がこの地球上には2か所あるという驚くべきことに気が付きました。何をいまさらそんなことを…と言ったレベルではあるのですが、今まで考えもしなかった事実を目の当たりにして、一気に眠くなりそのまま寝てしまいました。そして今日になってこれをしたためているのです。おしまい。

追伸    私は本日をもって水深 二尋(みぶか にひろ)と称することと   

      しました。

      すでにお気づきのように、あのマーク・トゥエインのもじりで 

      す。

絞縄

 絞縄(こうじょう)とはどんな縄かと言うと、絞首刑の時に首にかける縄のことで、刑執行時には2.4メートル落下してこの縄が首に食い込むのだそうです。つい最近3人の死刑囚がこの絞首刑を残虐だとして刑の廃止を求める裁判を起こした?あるいは起こすとのニュースを見ました。一説によると、絞首刑による遺体はかなりグロテスクなもののようであり、いわゆる首つり自殺と異なると言います。どのように異なるのか、まあ想像ですが、2.4メートル落下すると体の重さで首が伸びると言うか、外れると言うか、要するに無理やり身長を伸ばすような、それを首の部分に力を集中させるのですからおのずと見たくないような結果が、そんなところではないかと思われます。先日お辞めになった法務大臣の方も、そのあたりを汲んであのような発言をなされたのか何とも言えませんのですが、死刑をダシに使った話が立場上見識を問われるのは間違いないようです。

 さて、私は何が言いたくてこんな縁起でもない縄のことを書き始めたのか、実はよく分からずにいて、この話はこれでおしまいです。 

 

ヒトの未来について

   ヒトという種族が地球上に現れてからすでに20万年以上経過しているだろうと言われています。この20万年という時間は地球史的に見れば、例の地球時計1年の12月31日23時30分を少し回ったあたりから24時までの時間であって、さらにヒトが文明らしきものに関わるのは除夜の鐘がつき終わる少し前といった、現在からみればほんの一瞬程度の経過でしかない訳です。ヒト以外の種族の存続平均時間がどの程度あるか知らないのですが、長い種では1億年以上、あの恐竜たちは8千万年ほどで絶滅、それも隕石の衝突というアクシデントによるイレギュラーな絶滅でした。短いものは数千年あるいは数万年程度ではなかったでしょうか。しかしそういった短い時間しか存在できなかった種は化石にも残らず痕跡そのものが無いので何とも言えません。ヒトの20万年という時間は地球史的に見ればほんの僅かですから、これからさらに変化して行く可能性があるとも言えますが、ヒトのように急激に増加した種は絶滅もまた急激に起こるケースが多いようです。だとすればそのあたりはかなり未知数と言えます。

ヒトが発生から現在までに獲得した数々の能力のうち最大なものは脳の機能であると言えるでしょう。ヒトの脳の容積は他の動物と比較して大きく、体重との比率も群を抜いています。しかしその機能の大部分は休眠状態と言われています。その理由は今のところ不明のようですが、あまりに急速に肥大化したために利用できないでいるか、もしくは取捨選択をせずに何もかも詰め込み後で整理する、言ってみれば現在は整理中なのではないかと思われるのです。ヒトという種族の強欲さを考えるとき、整理には時間がかかり余分な機能をいつまでも抱えてしまう、そんな未来が予想されます。また整理されていない脳の機能はバグをたびたび起こしやすいでしょう。機能不全に陥った人が多く出ることもそれらのことを裏付けているような気もします。

 ヒトが他の種と異なる点として挙げられるのは、時間という概念を獲得したことではないでしょうか。これは脳の機能を活用することで生まれたものです。長さや広さ高さを概念として認識する種は哺乳類の他にも、魚類や爬虫類、鳥類それに昆虫や微生物だって持っている概念あるいは感覚です。樹木や草などの植物は動物と違って動き回らないからそういったものは必要としなかったのでしょう。まあ線虫や細菌に同様のものがあるのか私は知らないのですが、いわゆる3次元という空間認識ができるのは動き回る種、動物に限られるのではないかと思っています。しかし時間という概念になるとヒトに一番近いとされるチンパンジーでさえ疑問符が付きます。恐怖や危険を察知できる能力は、過去の経験の記憶がものを言います。哺乳類の中でも比較的に脳の発達したサル族や犬族、猫族などの高等哺乳類はかなりの記憶量が脳に保管されていると思われます。ですから時間という概念が全くないかというと、少なくとも「過去」という時間に関しては一定の理解と感覚を持っているのではないでしょうか。しかし「未来」という時間に対する認識はないと思われます。これは私の家で一緒に生活している猫に尋ねたところの結論ですからあてになるかどうか、今一つ自信は持てませんが。とにかく、過去、現在、未来という時間認識をできる種はヒトを除いてこの地球上には居ない、と考えて差し支えないでしょう。

 そこで、ではヒトの未来はどんな状況になるのだろうということですね。思うに、時間という概念を獲得したヒトは、その時間に縛られ、振り回される状況に陥ってしまったと言ってよいでしょう。つまり他の種がのびのびと、未来や過去に捉われずに生きることができるのに、ヒトは様々な不安や心配ごとに心を煩わされて、著しく精神の不安定な生活を送らざるを得ないようになっています。乳幼児期の頃は、ヒトも他の種同様に生きることに無自覚で、ただ目の前にある現実を受け入れるだけの生活を送っています。考えてみれば、この生活に何の不都合があるのでしょう、何もありません。つまり時間などという概念は、言ってみれば余分なものでしかないのです。しかしすでにヒトは時間というものを前提にして生活するようになっていますから、時間軸を無視した生活を送ることが出来ません。まったく面倒なものを採用したものです。

 ヒトと他の種との大きな違いは繁殖行動についても顕著です。言うまでもなく繁殖行動は種の存続にとり欠かせないもので、このためにすべてをかける生き物が殆どと言ってよいほどの本能行動です。ところがヒトはこの行動を繁殖とは切り離して行うようになりました。性行為を繁殖と切り離す行動はサル族の中にも一部見られるようですが、ヒトのように完全に切り離して、性行為そのものを楽しむ快楽として行う種はほかに見当たりません。私もヒト族の一員ですから、のべつ幕なしに発情するヒトの気持ちが良くわかり、困ったものと思わなくもありません。しかし、脳の発達によって繁殖と切り離された性行為は、ヒトの精神活動にも大きな影響を与えています。依存症や変態行為を伴う精神疾患などは、単なる“イロキチガイ”では済まされない深刻な社会病とも言え、繁殖と性行為という単純かつ明快な関係性を、ドロドロぐっちゃぐちゃなヤバい世界に発展させてしまったのです。まあそう言った世界に興味や関心を示す、あるいは経験してみたいなんて言う軽はずみな人たちも少なからずいることも事実で、商売さえ成り立つという実にこの嘆かわしいというか、なんというか、エライこととなっているのです。

 それはともかく、20世紀の中盤から後半にかけてのヒトは、明るく豊かな未来を疑いませんでした。それは科学技術の発達と医療の高度化、食糧生産の安定などに支えられたものでした。また気候的にも温暖で恵まれた時代でした。穏やかで自然災害も比較的少なく地球史的に見ればほんの一瞬ではあるのですが、ヒトにとっては安定期と言ってよい時代が長く続いたと言えるのでしょう。また同一の種同士が殺しあうという「戦争」も、小規模のものを除けば起こらず、したがって人口は飛躍的に増大しました。近々世界の人口は80億に達するという予想がつい最近出ましたが(確か11月15日に80億を超えた)、20世紀に70億となった人口が1世紀を経ないで10億人も増加する、人口爆発とも言える状況にヒトが種として耐えられるのか、この一点だけでも甚だ疑問なのです。地球上の生物は現在その多くが大量絶滅期に入っていると言われています。そして大量絶滅の原因の主なものがヒトの爆発的増加にあると、少なからぬ研究者が指摘しているのです。私たちの未来は累々たる絶滅の上にあるのでしょうか。

 地球温暖化やSDGs、食糧危機、果ては新型ウィルスへの対応など、ヒトが抱えている問題は大げさではなく“山のように”あって、残念ながら多くの課題に解決策が見いだせていない、あるいはすでに手遅れとも言える状況になっています。人類と呼ばれるヒトの集団は、全体でみれば無政府的な統制の取れていない集団と言えます。代表的な国際組織としての国連も肝心なところで無能ぶりを発揮して存在感を薄くしています。軍事的な同盟はそれなりの強制力と統率力を持っていますが、部分的であり戦争状態に対応したもので日常生活全般には機能しません。気候変動が地球温暖化に重大な影響をもたらすことは周知の事実ですが、COPなどの国際会議でも各国の利害が優先してしまい、有効な具体策は後送りとなることが度々です。詰まるところ、ヒトはサルの一派であり自分たちの集団以外の利益については無関心であるという習性が、いまだ克服されていないレベルに留まっているとしか思えないのです。したがってヒトの未来は絶望的であるという、いつもの結論しか思い浮かばない実に困ったこととなっています。

1光年の距離

    アンドロメダ銀河という名前の銀河はよく耳にします。地球が属する天の川銀河に一番近い銀河で、近いと言っても約250万光年も離れているから“近い”と言う表現が適切かどうか、まあ相対的に他の銀河よりは近いと言うことであるのでしょう。ところで天体の話によく出てくるこの“光年”と言う単位は、光の速さで1年間飛ぶ距離だとされています。しかし具体的に1光年という距離はどのくらいの距離なのか、ちょっと計算して見ました。

    30万㎞×60×60×24×365となるのでしょう。光が1秒間に進む距離に秒、分、日、年をそれぞれに掛けていけば出ます。結果、9兆4608億万㎞となって、音速の速さで88.2万年かかる距離のようです。冒頭のアンドロメダ銀河はこの距離に250万を掛けたもので、もう書くのも馬鹿馬鹿しいくらい離れた銀河なのです。でもこれが一番近い、言ってみればお隣さんなのです。宇宙のスケールはとてつもなく大きく、人知の及ぶところでないことがよく分かります。しかしこんなことで驚いていては宇宙を語れない訳で、現在の確認できている宇宙の広さは約130億光年などと言いますから、確かに250万光年ぐらいは近いと言えるかも知れません。因みに天の川銀河の大きさは差し渡し10万光年ほどで、地球が所属する太陽系はその中心から3万光年ほど離れた恒星群の中に位置しているそうです。これだって人知を超えたスケールであり、いかにヒトの物差しの範囲が狭いか、小さいかという、実にどうも・・という世界なのです。

 私たちはこのようなとてつもなく広い宇宙の片隅だか中心だかさえも分からない、地球と言うちっぽけな惑星に張り付いている生き物の一部で、ヒトとしてはたかだか20万年ほどしかの歴史を持ち合わせていなく、ゴキブリでさえ1億年の時間を経過しているのと比べても新参者のぽっと出なのです。そのぽっと出の出来損ないがあれこれ考えても、まあ高が知れている訳であり底も浅いのですが、それでも“五尺の小躯をもってこの大をはからむとす”とばかりに相対論やら量子論やらを捻くり出して、この大きな宇宙の成り立ちのほんの一部でもよいから知りたいと、分不相応な思いに日夜悶々とあるいは嬉々として取り組む人たちもいます。“この大をはからむ”のはそのあたりの人たちに任せて、凡俗の輩としては目の下数メートル四方を見回して、ガツガツせずにのんびり適当ほどほどに生きていけばよいと、常々と考えているのであるのです。小人は暇だとロクでもないことをする、などと言う格言もありますが、この星の指導者と言われる人たちは、暇でもないのにロクなことしか考えず、ロクでもないことを性懲りもなく続けるという悪癖を、未だに持ったまま大手をふるっています。悪癖の中身にいちいち言及しませんが、もういい加減にしろよと怒鳴りつけてやりたいほどのものです。

 さて、1光年の距離から話は脱線しましたが、太陽から地球までに光が届く時間は約8分と言われています。つまり、5分前に太陽が突然無くなったとしても地球では燦燦と日が照り付けている(まあ昼間で晴れていればですが)、と言った距離感なのです。メートル単位で言えば約1億5千万㎞、時速100キロで車を走らせれば150万時間で太陽にたどり着きます。150万時間とは何日なのかは考えたくもないのですが、とんでもない日数がかかることは間違いありません。ところで太陽までの距離とか星までの距離とかはどうやって測るのでしょうか。調べてみると100光年あたりまでの星は三角測量法でやるらしく、それ以上の星や銀河は変光星を使いなんたらかんたらと書いてありましたが、よく理解できませんでした。とにかくそのようにして測れるようです。まさか巻き尺で測るのかなどとは思いませんが、どうも雲をつかむような話でいまひとつ落ち着きません。

 ともかく、この宇宙と言うバカでかい対象を少しでも把握しようと、捻くり出した苦肉の策というのがこの1光年と言う単位だったようです。アインシュタインによると、光の速度はすべての運動の中で最も早く、何物もこれを超えることはできないとのことですから、1光年より大きい単位は存在しないのです。だから宇宙を測る単位はこれしかない、と言う訳です。今のところは・・・。 1光年という距離が宇宙を測る物差しとしては最小単位であったとしても、ヒトの世界では現実には見ることも実感も出来ないものであり、言ってみれば創造の産物のようなものです。でもそんな想像でしかない距離、単位に限りない夢を感じるのも不思議なことです。太陽や月、夜空に光る星々を見るとき、光年という単位が自分との距離感を与えてくれます。掴みどころのない単位ですがなくてはならない単位と思われます。

第3次世界大戦

 SF物の世界では第三次世界大戦が起きるとその後はデストピアが始まり人類の滅亡、というシナリオがよく書かれていた。時代的には21世紀の後半だったり22世紀に入ってからだったりするのだが、共通しているのは世界大戦が始まればもうその次には“人類滅亡”という結果だった。ロシアのウクライナ侵攻からすでに3ヶ月以上たつが、欧米とロシアとの間接戦争のような様相がますます濃くなってきていて、ウクライナに世界中の武器が持ち込まれ、いつ終わるとも知れない状況が続いている。これはもうある意味では世界大戦の前哨戦であり、世界的な食糧、燃料不足事態を加速させながら欧米とそれに対抗する国々との、覇権をめぐるというよりは価値観をめぐる本格的な戦争状態に突入するのではと思わずにはいられない。

 第1次大戦、第2次大戦が領土や覇権をめぐる戦いであったことと異なり、今回のロシアの侵攻は少し違うような気がする。ウクライナに対する領土的野望を無視することは出来ないけれども、今のロシアにとってウクライナの領土的価値は欧米を敵に回すほど高いとも思えない。プーチンの個人的野望が優先されているとも言われているが、ドストエスキーやトルストイチャイコフスキー、ストラビンスキー、ショスタコーヴィチ、そしてシャガールなどを生んだあのロシアの文化芸術性の高さからは理解できない部分が多い。もちろんスターリンを戴いたのもロシア民衆であった訳だが、だいぶ懲りて学習してペレストロイカとなりゴルバチョフを経て共産党独裁を捨てたのではなかったのか。今回の事態がプーチンを中心としたロシア強権派の仕業だとしても、軍部や資本家の中に居る改革派が皆無とは思えない。もちろん民衆の中には改革派の本体が居るはずだろう。皇帝を否定し共産党をも否定したロシア民衆の良心あるいは理性とも言うべき潮流は途絶えてしまったのか、そんなことは無いと思えるのだが・・・。ともかくこのままではロシアが立ち行かなくなり、世界を巻き込んだ戦争になりかねない。いやすでに始まっているとも言えるかも知れない。

 日本の現政権を担当している自民党内では、ここぞとばかり軍事費を増額して軍備の拡大を叫ぶ勢力が幅を利かしている。残念ながら次の国政選挙ではそのような動きに歯止めをかけることが出来そうにない。欧米諸国が一斉に軍拡に走る中では日本の軍事大国化の印象は薄められてしまう。言い換えれば、世界中が軍拡に走る状況になってゆき、それはとりもなおさず戦争への第一歩となるはずだ。今のところ私の頭の上にミサイルや大砲の弾は飛んでいないが、いつそういった事態が起きてもおかしくない状況が迫っているのではと思う。けれどそれらの事態が軍事費を増額して避けられるとは思えない。インフレで生活苦が増大する状況を放置して「国」を守るために武器を買うなどは主客転倒も甚だしい。“衣食足りて礼節を知る”と言う意味を政権担当者たちは考えるべきだ。

それにつけても、日銀の黒田の馬鹿をどうにかしてくれ。

神、貨幣及び国

 ヒトの世界では「神」という存在が長い間信じられてきたのですが、19世紀後半辺りから“ほんとかよ?”と思うヒトもちらほら現れて、20世紀になるとかなり本格的に無神論が言われるようになります。神や仏、あるいは悪魔、幽霊などはヒトが創り出した概念であって、ヒトが信じれば存在するし信じなければ存在しない、要するに“イワシの頭も信心”というレベルのもの、と私は考えていますから信仰や宗教とは無縁の生活をしてきました。

 「神」と同じような概念で「貨幣」というものがあります。これもヒトが創り出した概念で、最初の頃は希少金属の金であったり銀であったりもしたようですが、そのうち大量に作ることが出来る金属に変わり、さらに印刷された紙になり、今ではスマホの中の電気信号が主流となりつつあります。同じ概念でもこの「貨幣」は「神」と違って具体性があり無視して生活することは出来ません。物々交換がまったく出来ない訳ではないでしょうが、実生活ではほとんど不可能なシステムで、「貨幣」という概念に頼らざるを得ないのです。

 同じようなものは他にもあります。「国」というものも概念です。玉を囲んだものが国という字ですから、宝石、この場合は王ということでしょうか、それを中心に据えたものが「国」という概念であり、この王を中心としたヒエラルキー構造を国と呼ぶようになったのでしょう。今では言語とか人種、習慣などの共通した集団をまとめた組織などを「国」としているようです。まあ厳密にはいろいろ定義があるようですが、ヒトが決めた概念であることは間違いないのです。共同幻想とも言えます。

 だからと言う訳ではないでしょうが、神も貨幣も国も新参者がたびたび現れます。新興宗教や独立国、新通貨などです。要するにこれらはヒトが勝手に創ることが出来るものであり、絶対性などはないということになります。こんな不確かなものに命を懸けたり全財産をつぎ込むのは莫迦げたことだと思うのですが、往々にしてヒトはこれらに捉われます。もしヒトがこの三つに捉われないのであれば、アラブの紛争や経済格差、そして今も進行しているウクライナでの戦争も回避できるのにと思ったりします。

 

徹底抗戦

 ロシアがウクライナに侵攻を開始してからすでに2か月が過ぎました。当初予想したロシアの目論見はかなり外れて長期戦となる模様です。当然のこととしてウクライナ・ロシア双方に多くの犠牲者が出ることとなっています。とくにウクライナは戦場となっているのですから非戦闘員の犠牲が多数出ており、街の破壊や市民の財産の損害が深刻な状況となっていると思われます。

 ウクライナ政府はロシアの侵攻当初より徹底抗戦を国民に呼びかけ、欧米諸国には武器供与や支援を要請、外交的にもそれらを進めてきました。その結果として世界的には包囲網的状況を創り出してロシアの孤立化を進め、当初の予想を覆した長期戦となる様相を示しています。中国の古い戦略論に「善く陣を敷くものは戦わず、善く戦うものは負けず、善く負けるものは滅びず」というのがあります。ロシアとウクライナは軍事的力量に格段の差があり、当事者同士のみで戦えばその勝敗はロシアの圧倒的有利で終わったでしょう。いまさら言ったところで何の役にも立ちませんが、ウクライナの戦略的後退、あるいは負けを次善策として考慮に入れた戦術は無理だったのでしょうか。多数の市民が犠牲となり、街が壊滅するような悲劇を回避することを最優先とした戦略的、戦術的な対応という選択肢もあったような気もします。

 今となってはまず停戦を双方に合意させるため、国際的機関である国連が中心となって、あらゆる努力を早急に効果的に推し進める必要があります。具体的には戦闘地域にグテーレス事務総長はじめとした国連幹部が直接入り戦闘行為を中止させるぐらいの行動が、あるいは各国首脳がウクライナで停戦のための緊急会議を開催するとかの思い切った取り組みが必要ではないでしょうか。これ以上の戦火の拡大は何としても食い止める、このことが急務であると思うのです。

 今のところミサイルも砲弾も飛んでこないこの国では何を言っても切実感がありませんが、”徹底抗戦”と言うフレーズは”一億総玉砕”と叫んでいた77年前の日本を思い出します。と言っても僕は生まれていないのですがその時には。