「ミシェル 城館の人」

いよいよ、と言うかやっとと言うか、第3巻目を読み始めたのです。読み終えた第2巻の副題は「自然 理性 運命」だったのですが、例によってモンテーニュを取り巻くサイドストーリーにかなりのページ数がさかれている構成は変わらず、しかしそれもこの本の魅力と思えて気にはなりませんでした。
副題にある自然、理性、運命は「エセー」のテーマとも言うべきものらしく、さすがこの巻ではその辺りにも焦点を当てていました。ミシェル・ド・モンテーニュの思想あるいは思索の目標についても、「エセー」に書かれた記述を中心に解説、論評が加えられます。前にも書きましたが、モンテーニュが時代を突き抜けた、ある意味現代的発想の持ち主であったことは驚くばかりで、物事を教条的に受け取るのではなく、懐疑的に見つめることを常に忘れなかったなど、科学的とも言える思考法を持ち続けました。モンテーニュが活躍した16世紀中盤から後半と言えばガリレオが生まれた頃であり、ニュートンが出てくるのはさらに1世紀先となります。日本では戦国時代後半から織豊政権時代に当たる頃で、世界中が“神”もしくは絶対的存在を盲目的(これ差別語かなあ)に信じていた時代です。そんな時代にあって、神をも含めて物事を懐疑的に見つめ、あるいはリベラルとも言える発想で思索をしていたと言うのですから、やはりモンテーニュは傑出した人物であったようです。彼のそういった思想の原点は、第1巻目で繰り返し語られた幼年時代からのラテン語教育の中での経験によるものらしく、ギリシャ・ローマの書物、学問を習得する中で培われたと言います。“知ることと同じように、疑うことは私には気持よい”と「エセー」の中で言っているモンテーニュは、16世紀の人としては破格であったようです。
しかしまあ、くどいようですが今読んでいるのは「エセー」ではなく堀田 善衛の「ミシェル 城館の人」ですから、モンテーニュその人の著作に直に触れている訳ではなく、間接的に、他人の目を通してみているのです。ですから堀田 善衛の感じたモンテーニュ像を読んでいることは間違いなく、その範囲でのモンテーニュの印象ということになります。

平均台の人・・ではないか