絵にかいて看板を掲げたような

目には見えない、けれど具体的な事実としての状態を、言葉にして表現することがあります。
「冷水を浴びる」とか「肝をつぶす」、「胸が張り裂ける」などなど、数え上げればきりがないほどでしょう。これらは具体的に水をかけられた訳でもなく、肝がつぶれたのでもなく、ましてや胸が張り裂けたりしたのではありません。正気となるとかびっくりする、あるいは悲しむと言う状態を具体的イメージとしたものです。
「絵にかいて看板を掲げたような」という表現は、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」の3部に出てくる表現ですが、ふつう「絵にかいたような」という言い方で、貧乏を表すとき“枕”に振ります。「ねじまき鳥」ではそれに「看板を掲げたような」を追加してさらに貧乏を強調した表現として使われています。この追加部分は村上が考えたのか、それとも元からあるのかは知りませんが、ダメを押すような表現方法は効果的です。貧乏を表す言い方としては、「赤貧洗うがごとく」や「爪に火を点す」、「首が回らない」「破れ障子にぼろ畳」、達観したところでは「質の流れに借金の山」なんてのもあり、これも数え上げるときりがないようです。「金がうなる」あるいは「懐が温かい」などという表現とは縁のない私は、この「絵にかいて看板を掲げるような」といった物言いには親近感を覚えます。まあ私とて好きで貧乏しているわけではないのですが、兼好さんや長明さんのような方とは違った、必要に迫られた貧乏を十分に堪能してきたものにとっては、「絵にかいて・・・」という境遇には共感を禁じ得ないと言えましょう。
「貧困の連鎖」、「下流老人」などの言葉が他人事でなくなっている今、以前には「一億総中流」と錯覚していた世代が、まさに冷水を浴びせられたような現実の厳しさに直面しなければならない時代となっています、「アホノミクス」によって。

困るのよねえ