限界がある

“為せばなる 為さねばならぬ何事も 為さぬは人の為さぬなりけり”と言った格言があったような気がします。しかし物事にはすべからく限界というものもあるようで、駄目なものは駄目、不明なものは不明、出来ないことは出来ないのであって、昨今の中東などで起きている状況などを見ると、その思いを強くします。あの“アラブの春”は何であったのか、とまあ直接には関わりの無い立場で気軽に考えたりするのです。
しかしその手のことは身近にもあって、阪神淡路、東日本とここ20年の間に2度も大震災を目にした私たちは、依然として砂上の楼台に居て安穏としています。自らが経験したり、あるいは見たり聞いたりしても、懲りないし変えられないでいることが多いようで、どうもその辺りに「限界」という文字がちらつくのです。
20世紀の始めの頃には科学は万能と考えられ、時間が経過すれば出来ないものは無いとさえ言われていました。ところがその後に物理の世界でいち早く“万能”に待ったがかけられます。ハイゼンベルクの「不確定性原理」がそれで、それまでの物体の速度や位置は計算によってすべて導き出せるものとされた概念を否定してしまったのです。もちろん私は「不確定性原理」などチンプンカンプンで、本にそう書いてあったからただ引用しただけなのですが、とにかく万能性の一角が崩れたのです。その後社会科学の分野でもケネス・アローという人が、投票行為によって投票者の意向を計ることは無理といった、不可能性定理とも言うべき考えを発表して、民主主義システムに一石を投じるようなことにもなります。要するに“世の中万能なんて無いよ”ということがだんだんハッキリしだした、20世紀後半はそんな時代であったようなのです。「不確実性」の時代なんてことも言われました。
しかし限界があると言うことは、見方を変えれば目標がはっきりすることでもあり、ともかく“そこ”までは行ける、到達点が明確になることでもあるように思えます。“んだからなんだ”と言われると“ただそう思っただけ”としか言いようがないのですが、限界をはっきりさせることで新たな道も見える、そんな風にも考えるのです。ほら、闇雲に”成長戦略“をいう人たちなんかも少しは「限界」を考慮すべきではないかと、ヒトは車より速くは走れないのですから。

ヒトは私たちよりも速くは走れない。