自虐的歴史観

考えてみれば、私の半生(もう残り少ないから4分の3生ぐらいですか)は何をやっても中途半端で飽きっぽく、そのくせ人一倍目立ちたがり屋だったので出来もしないことを吹聴して見たり、嘘はつく、虚勢は張る、すぐ腹を立てるなどなど、まあロクでもないことを数多くしながら過ぎてきたなと思うことしきりです。そんな私がどうにかこうにか今まで大過なく来られたのは、周辺の人たちの理解というか黙認というか、“まあ仕方ねーか”といった懐の深さに助けられたことがまず第一に挙げられるでしょう。いまにして思えば、かなり自分勝手な振る舞いに終始していたようで、冷や汗が出るだけでは済まないと考えることも度々です。
しかしそういった反面、「いや、俺のやってきたことは俺の実力がそうさせたのであって、他人の世話なんぞは後からついてきた」と声だかにまくし立てている自分にも気が付くのです。嘘も方便、運も実力のうち、他人より先んじてこその成功、大風呂敷は自分を鼓舞する手段、とばかりに今までの来し方を全面肯定する自分が居るのです。とくに年齢を重ねてからというものは、何かと過去を美化しがちであり、先行きの短いことも相まって周りの意見や忠告によりも、自分に都合の良いことばかりを見てしまう傾向が強くなってきて、それに過去の記憶そのものが薄れて事実を曲げてしまうことだってあるし・・・、あ!いけないまた自虐的になってしまった、これだから自信を無くしてしまうんだ。そう、こんな風に考えるから駄目なんで、自分のしたことに誇りを持って生きてゆくようにしなければならないのです。
参ったなあ、統合失調症のような分裂状態とも言えるけど、あまり自分に過信するのも考え物で、幾度かひどい目にも合っているし、やはりほどほど自信と謙虚さがうまく調和しないとヤバイというか、客観性の欠如は墓穴を掘るに等しいとも言うから、注意したほうが賢明でしょうねえ。自信と傲慢は紙一重とも言いますから。

これじゃあ自虐的にもなるわな