孔子も老子も荘子も何ぼのもんじゃい

結論から言いますと、老子荘子も良く分からず途中で投げ出したということです。知識や聖人を有難がるのは意味のないことという教えや、自己解放というか個人あるいは魂の自由を目指す老荘の思想は、ある意味では現代的であり時代を先取りしたものでもあったようです。
しかし、私にとっては既にそのようなことはどうでも良いことでもあり、ダラダラの生活の中では、乾いた地面にしみこむ雨水のようなことには成らなかったのでした。もう40年も前であったら少しは琴線に触れたかも知れません。身をつづまやかにして 貪らず、みんなにでくの坊と言われ、頼りにされず邪魔にもされない生活を望むだけの器量で満足する、それで十分と考えている輩には孔子老子荘子も無いということでしょうか。
小市民的生活を送る者にとって知識としての老子荘子はあっても、思想としては既に遠く離れたものとしての存在でしかないようです。ソーローや長明も老境に入ろうとする者には少し荷が重いかも知れません。ですから、ここはひとつ開き直り、“何ぼのもんじゃい HOW MUCH!”と行くしかないと納得したのでした。
訳のわからないことをグダグダと書き連ねておりますが、白痴の喋る物語 何も意味はありはしないのです、念のため。PS また明日から休み。

無駄な抵抗ね、 私のようにはなれないのね。