神さんはしぶとい

このところ立て続けに2冊ばかり「神」に関する本を読んでいまして、前にも書いたリチャード・ドーキンスの「神は妄想である」とジェシー・ベリング「ヒトはなぜ神を信じるのか」ですが、前者は“神も仏もあるかいな 全くもう”という論調で埋め尽くされ、後者は「神はヒトが進化の中で獲得した心の理論によって生み出されたもの」という、ともに無神論を前提とした内容の本です。
この2冊を読んで思うのは、神を待たぬ者がキリスト教社会の中で暮らすことの不自由さと、神とあまりに無関係でいられる日本の都市社会との違いです。以前カナダに短期留学した知人が、現地では教会に行かないと肩身が狭いと言っていたことを想い出しました。日本でも、地域によっては“墓参り”や“お寺や神社へのお参り”を欠かすと白い目で見られるようですが、都市部で暮らす分には神や仏さんとは無縁でいられます。しかし人々に信仰心がないかと言えば、必ずしもそうでない風潮もあるのです。“ホット・スポット”やら初詣、厄払いとかなりの人たちが神社や仏閣に参拝します。まあ、それらが信仰心と結びついているかどうか額面通りには受け取れないとしても、何らかの心理的な拠り処もしくはご利益頼みを期待しているからこそのお参りであるのでしょう。つまり、“効果”があると考えている人が少なくないと言う訳です。そういった意味ではこの国の神の存在も、全く無視されているのでもないとも言えます。
私自身が無神論者で不信心者ですから、神だとか宗教の類は縁がなく、親の墓参りすら殆どしない有様です。ヒトは死んでしまえばそれきりで、自分の葬式などはするつもりはなく(遺言でそのように書いておきます)、墓もいらずに散骨で十分と考えています。にも拘らず、お盆の死者を迎える習慣や山の神や地の神などに対する思いには、少なからずに否定的でないものも感じています。ドーキンスやベリング流に言えば、ヒトが進化の中で身につけた利己的なバイアスが知らず知らずに作用している訳で、“神もしぶといね”といったところでしょうか。
 
 なに 私がしぶといって?