“神”のこと  その3

神が制度化されるにあたっては(こんな風に言うと罰が当たりますかね)、農耕の拡大とか生産力の飛躍的な発展に伴う余剰生産物の蓄積および管理の必要性の増大などが考えられますが、早い話が社会の中に階層が生まれる時代が出来上がったことと時を同じくしていたようです(また“・・よう”ですね)。絶対的存在を置くことでその社会が秩序立てられるメリットを見つけたのです。この辺りの心理は分かりやすいですよね、“そんなことをすると神様の罰が当たる”という脅しが使えるのですからとても便利な訳です。“神”は万能なので良いことも悪いことも出来るのです。豊作は神の御恵み、災難は神の御怒り、何でもかんでも神様のせいにすれば、大多数のよく分からない派は納得するし、誰も責任を取らなくてよいから大変便利な制度でもあったのです。因みにリーダー待望論というのはこれに似ていて、強力な指導者に何もかも任せてしまえば楽で良いと考えるところなどそっくりです。まあ言ってみれば奴隷根性丸出しとでも言いますか、そんなレベルの話のようです。
こういった制度の運営者は始めへそ曲がりの口先上手がやっていたでしょうが、そのうちにさらに調子のよいものが現れてきます。目先がきいて財テクなんかが得意で、人当たりもよく「よっしゃよっしゃ任せておけ」などと物を右から左に動かして儲けたり、人を使うのも上手だったりして、だんだんと周りから一目置かれるような存在となります。当時は“自分のものは自分のもの、他人のものは隙あれば自分のもの”という時代ですから、略奪や紛争は日常的であったと思われます。そこで、「食い物が無くなったから、隣の集落へかっぱらいに行くべえ、“よっしゃよっしゃ”よ、おめえちょくら頼むだよ」などとお調子者は言われ、「よっしゃ、んだばおらの指図で行くから、何人かついてこいや」とまあ指示する者とされる者といった構図が出来上がり、“へそ曲がり”のほかにお調子者の“よっしゃ”が並び立つ集団が形成されてゆきます。そのうち実利に長けた“よっしゃ”が集団全体の運営をするようになり、神の発見者の“へそ曲がり”は神専門の担当になってしまったのです。                               つづく

 
 神 空にしろしめす