“神”のこと  その2

そもそもどのあたりの時代から神様が出てくるのかということですが、チグリス・ユーフラテス河畔に発生したとされるシュメル(シュメールとも言います)文明あたりから記録に出てくるそうです。紀元前3000年から4000年ぐらい前の文明らしいですが、ヒトが文字を発明したと言われている文明です。それ以前にもきっと神のような存在はあったでしょうが、なんせ記録がないから分かりません。ではなぜ“神”が出てきたのかというと、実はここからがややこしい話で、神を信じている人は「神が居たから・・」と考える訳で、「神が出てくる・・」なんて発想はないんですよね。まず「神ありき」これでお終いです。しかしねえそれじゃ知恵も文化もないでしょう、だからいろいろ背景とか要因とかを拵えてもっともらしくしたいのですよ、無神論者としては。
考えられるのは、自分たちで理解できないことは誰かのせいにするという発想ではないでしょうか。ヒトは思い上がりの激しい種ですから、何かにつけ理由や納得をしたいのです。しかしヒトに納得できることなど当時としては少ないわけですから、分かんないことだらけで混乱の極みといった状態であったでしょう。もちろんそのように考える人は限られた人で、大多数の人々は「分かんねえことは分かんねえもんね」と納得していたのです。その限られたへそ曲がりが、大多数のヒトに「そんな適当なことでどうする、え!」とまあ、食ってかかったのですよ。すると大多数のヒトは「そんなこと言ったっておめえ、分かんねえことは分かんねえだから、早く飯食って寝ろ」と激論が戦わされたはずです。そこでへそ曲がりは「馬鹿こくでねえ、おらは見ただ、なんか変なものがそこに居ただよ」とつい口を滑らして嘘を言ってしまったのです。そうでもしないと多勢に無勢、自分の存在意義は無くなってしまう恐怖に襲われたのです。へそ曲がりは目立ちたがり屋でもあったのです。すると、分かんないことだらけの大多数のヒトはめんどくさいものだから、「はいはい、良く分かった早く寝ろ」と言って寝てしまったと言う訳です。さて収まらないへそ曲がりは、翌日から次から次へと有ること無いことをまくし立て、この世のすべてのことは原因があって、その原因となっているのは絶対的存在によるものだと言い出したのです。大多数のよく分からない派のヒトは、その言いようがあまりに真に迫っていたので、ついその気にさせられてしまった、と言う訳です。いつの世も口先の上手いものが勝ちです。一度そうなってしまえばあとは簡単で、“神”という名前を付けて、名付け親が神官となって仕切ることとなった、そんなところではないでしょうか。    つづく

 
 神のポーズ