問答

近頃ではこの「問答」という形式のコミュニケーションをあまりやらなくなったようです。仏教の修業や禅の中では今でもやられているのでしょうが、日常の生活では他人にものを問うこと自体が少なくなっています。ネットや携帯の世界では様々な意見や問いが飛び交わっているようなのですが、リアルな関係ではお互いに干渉を避けるというか、踏み込んだ会話は避けるのが礼儀といった傾向が強いように思われます。
江戸時代までは他人の教えを乞うたり意見を聞きたい時は、直接出向いて本人に合うしか手が無かったから、「問答」することも大変だったようです。幕末の「志士」と言われた人達は、目的の人に会って話を聞く、或いはするために、何日もかけての旅も厭わなかったと言います。“押しかける”といったこともよくあったようで、詳しくは知りませんが、勝海舟坂本竜馬の出会いはこの“押しかけ”だったとされています。「問答」すること、他人の意見に触れることへの意気込みが、今とはかなりの違いを持っていた証なのでしょう。
徒然草」の最後の段では、兼好が父と交わした問答が書かれています。兼好が八つの頃の話として、「仏は何処から来たのか」といった問を父にぶつけています。この件を読むたびにアメリカの民謡?で「バケツの穴はどうするの」(だったか、どうか、そんな名前の歌で、ハリー・ベラフォンテがその昔歌っていた)を想い出しますが、父親との楽しい問答の様子を伝えています。いつの世も、どこの世界でも記憶に残る最初の問答は楽しく懐かしいものなのでしょう。因みに兼好の父親は、いろいろ質問された挙句返答に詰まり、「天から降ってきたか 地から湧いたかだろう」と笑ってしまいます。
私は残念ながらこのような記憶を持ち合わせていないので、この最後の段を読むたびに羨ましく思えます。
 
 私も徒然なるままよ