浅知恵(浅はかな知恵、底の浅いつまらない考え/広辞苑)

私は今年で63歳となった。自分がこんな年寄りになったことが未だ信じられないのだが、外でショウウィンドーなどに映る我が身を見れば、そこには年相応の老人が立っているのに愕然とするから、事実は受け入れざるを得ない。
 どうもヒトはその時その時の自分を客観的に見ることに長けていないようである。若い時分には何でも分かっているような、何でもできるような気持ちを持っていた。事実そうように振る舞い、偉そうな大言壮語を吐き散らしてきた記憶がある。しかしこれらは今となってやっと分かることであり、その当時は気がつかなかった。何も知らなかった、浅知恵だったとこの頃になって痛感する。穴があったら入りたいとも思う。今さら思っても考えても後の祭りだから、ただただ口の中でゴニョゴニョ言って気を紛らわすだけだが、背中に冷や汗を感じる時もある。歳を重ねることはそれだけ長い時間を経てきた訳だから、若い時分と比較すれば取り入れる知識や経験の量も自然と増えてくる。もちろんその殆どを忘れるから、30年40年経ったところで身につく量はたかが知れている。それでも幾らかは分かることが増えてくる。そうして若い時の不明、浅知恵に気がつくのである。では今は浅知恵が克服されたのかというと全くそんなことはなく、自分が浅知恵だということに気がつく知恵がついた程度のものなのだ。しかしそれでも長足の進歩と言える。
 専門的知識に明るい人や碩学の徒と言われる方も決して少なくはないが、多数派を形成しているとは言い難い。してみるとおおむねヒトは浅知恵がスタンダードであるとも言える。勿論のこと浅知恵の中にもレベルがあり、上の部やら下の部、その下の下の部などがあるだろうから一概に「浅知恵」で括る訳にも行かないのだが、自分が浅知恵と認識できる程度まで、この歳になってやっと辿り着いたとも言える。鏡を見て老人になったと自認できる、浅知恵の自分に気づく。「老いて 智の若さにまされる事 若くして かたちの 老いたるにまされるが如し」には程遠いにしても、数歩は近づいたかもしれない。来年は64歳。“When I’m Sixty-Four”の歌詞を覚えるとしようか、などと言ってみたりして・・・。

まあ 浅知恵ね。